改)豊前 中津城 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①天守

イメージ 2②天守

イメージ 3③本丸石垣の継ぎ目

イメージ 4④南東隅櫓

イメージ 5⑤天守より山国川

イメージ 6⑥天守より山国川

 

訪問日:2002年5月

 

所在地:大分県中津市

 

 中津藩5代藩主・奥平昌高は天明元年(1781)薩摩藩主・島津重豪の次男として生まれた。8歳年長の異母姉・広大院(茂姫)は11代将軍・徳川家斉の正室、7歳年長の異母兄は島津斉宣。

 

 異母弟に30歳年下の黒田長溥(福岡藩主)、33歳年下の南部信順(八戸藩主)ら、異母妹に28歳年下の孝姫(桑名藩主松平定和の正室)、36歳年下の桃令院(貢姫・新庄藩主戸沢正令の正室)らがいる。

 

 天明6年(1786)昌高らの姉・敬姫(当時17歳、2年後に死去)と婚約していた中津藩4代・奥平昌男が24歳で急死すると、昌男の娘婿となって6歳で家督を継いだ。

 

 実父・島津重豪は「蘭癖大名」として知られ、昌男の父で3代藩主の奥平昌鹿(安永9年・1780に37歳で没)も中津藩医の蘭学者・前野良沢を保護し、蘭学を奨励したこともあって両者は懇意であった。

 

 寛政8年(1796)昌高は文武兼修の藩校・進脩館を設立、後に慶応義塾長となる小幡篤次郎・濱野定四郎を輩出し、現在の慶應義塾の源流の一つとなる(福沢諭吉は門下生にはなっていない)。

 

 昌高も蘭学好きが嵩じ、出島のオランダ商館長らと交流してフレデリック・ヘンドリックというオランダ名を与えられた。オランダ語も会話に不自由しないほど堪能になった。

 

 文化7年(1810)に『蘭語訳撰』(通称・中津辞書)を、続いて文政5年(1822)『バスタールド辞書』という蘭日辞書を出版する。

 

 文政8年(1825)家督を次男・昌暢に譲り、翌文政9年(1826)実父とともにシーボルトに面会し、以降5回にわたって会談している。

 

 安政2年(1855)江戸で没(74歳)、江戸時代後期の西洋文化・科学の導入に果たした昌高の役割は大きい。

 

 
以下、現地案内板より

 

黒田本丸の石垣と細川時代の石垣

 

 右側の石垣は、「折あらば天下人に」という野望を秘めた黒田孝高(如水)時代の本丸跡の石垣である。左側の石垣は、細川忠興(三斎)時代のもので、忠興自慢の石垣である。両時代の石垣とも花崗岩が多く使われている。
 中津城が歴史に登場するのは、天正15年(1587)孝高が豊臣秀吉に豊前の6郡を与えられ、山国川の河口デルタである中津の地を選び、翌年築城を始めたことによる。軍事的にも西に山国川、南と東に大家川(のち忠興の築いた金谷堤によってふさがれた)、北に周防灘を控えた要害の地であった。同時に瀬戸内海に面し、畿内への重要な港でもあった。
 孝高は、闇無浜から自見・大塚一帯を含む大規模な築城に取りかかったが、度重なる戦のため、なかなか工事もはかどらないまま、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いなどの功によって筑前52万石への加増転封し中津を去った。黒田氏の後には、細川忠興が豊前一国と豊後の国の国東・速見2郡の領主として入部した。忠興は最初中津城を居城とし、弟の興元を小倉城においた。慶長7年忠興は、居城を小倉城に変更し大規模な小倉城築城を始めた。元和元年(1615)一国一城令が出され、忠興は慶長年間より行っていた中津城の普請をいったん中止した。小倉城以外に、中津城も残されるよう老中に働きかけた結果、翌2年中津城の残置が決まった。
 元和6年(1620)家督を細川忠利に譲った忠興は、翌7年中津城に移り、中津城や城下町の整備を本格的に行った。元和の一国一城令や忠興の隠居城としての性格のため、同年本丸と二の丸の間の堀を埋め、天守台を周囲と同じ高さに下げるよう命じている。

 

中津市教育委員会 中津の郷土史を語る会