伊予 石手寺 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①三重塔

 

訪問日:1999年12月

 

所在地:愛媛県松山市

 

 寺伝によると、天平元年(729)聖武天皇の勅願により行基が開基となり、安養寺という法相宗の寺院であったが、弘仁4年(813)空海が訪れて真言宗に改めたとされている。

 

 ある時、伊予河野氏の一族・衛門三郎の門前にみすぼらしい僧が何度も現れ托鉢をしようとしたが、三郎はこれを追い払い、8日目にはその鉢をたたき割った。僧は弘法大師空海であった。

 

 するとこの年から三郎の8人の子が次々に亡くなり、8年目には全員が亡くなった。打ちひしがれた三郎の夢枕に大師が現れ、三郎は懺悔して全てを捨てて大師を追い求めて四国巡礼の旅に出る。

 

 20回巡礼しても出会えなかったので逆に廻ることにすると、天長8年(831)阿波杖杉庵で病に斃れる。その三郎の前に大師が現れ、三郎は大師に非を詫び、河野氏に生まれ変って善行をしたいと託して亡くなった。

 

 大師は路傍の石に「衛門三郎」と書いて三郎の左手に握らせて葬った。すると翌年、伊予国司・河野息利の長男が「衛門三郎」の石を握って誕生した。

 

 石は安養寺に納められ、寛平4年(892)この逸話から安養寺は「石手寺」に改められた。この伝説により衛門三郎がお遍路の元祖とされている。

 

 その後、平安末期の重源が四国で辺地修行をし、鎌倉時代の道範や一遍が空海遺跡を廻っているが、お遍路が成立している様子はうかがえない。

 

 室町時代の増吽が四国の多くの社寺を復興し、遍路の成立に関わっている可能性があるが、その後の長宗我部元親の四国平定戦や天正13年(1585)の豊臣秀吉の四国攻めでその多くが壊滅的な打撃を受けた。

 

 寛永15年(1638)に賢明が巡拝した記録では、現在とほぼ同じ順番で札所が記されている。(空性法親王四国御巡行記)

 

 貞享4年(1687)に四国遍路中興の祖・真念によって記された「四国遍路道指南」で初めて現在と同じ八十八箇所が同じ順番で、御詠歌も全てが登場し、庶民にまでお遍路が広まった。

 

 しかし明治の神仏分離令・廃仏毀釈による影響を受けて混乱し、現在の霊場の形に落ち着いたのは平成6年(1994)のことである。