肥前 大浦天主堂(日本二十六聖殉教者堂) | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①大浦天主堂

イメージ 2②大浦天主堂

イメージ 3③大浦天主堂

イメージ 4④旧長崎大司教館

イメージ 5⑤旧長崎大司教館

イメージ 6⑥旧羅典神学校

 

訪問日:2018年5月

 

所在地:長崎県長崎市

 

 ベルナール・タデー・プティジャン(Bernard-Thadee Petitjean)は1829年フランスの船大工の子として生まれた。1847年オータン神学校に入学、1854年に司祭に叙階され、1859年パリ外国宣教会に入会する。

 

 安政2年(1855)フランスはまず琉球との間に和親条約を結び、続いて安政5年(1858)幕府と日仏修好通商条約が調印され、両国に外交関係が開設された。

 

 万延元年(1860)日本布教を命じられ、香港を経て琉球にわたり、那覇で日本語を学び、文久2年(1862)ルイ・テオドル・フューレ(Louis-Theodore Furet)とともに横浜に赴いた。

 

 同年、長崎西坂の丘で殉教した26名(日本二十六聖人)が列聖され、フューレは長崎に赴任し、大浦天主堂の建築に取り掛かるが、文久3年(1863)心労のため帰国し、プティジャンがこれを引き継いだ。

 

 元治2年(1865)大浦天主堂が完成し、献堂式が行われた。あくまで修好通商条約に基づくフランス人のための礼拝堂として建設されたが、プティジャンは日本人にも自由に見学を許した。

 

 同年、浦上村の数名の一行の中のイザベリナ(ゆり)という52歳の女性が「ワレラノムネアナタノムネトオナジ」と告げた。信徒発見の瞬間であった。

 

 その後、長崎各地や五島・天草などからもキリシタンを名乗る者が現れ、プティジャンは秘密裏にミサや指導を行い、彼らは村に帰ってその教えを広めた。

 

 慶応3年(1867)浦上村の信徒の存在が露見し、高木仙右衛門ら68人の信徒が捕縛され激しい拷問を受けた。これにはフランス領事をはじめ各国の公使らが長崎奉行に抗議した。

 

 フランス公使レオン・ロッシュも正式に抗議を申し入れ、将軍・徳川慶喜と大坂城で事件について話し合った。プティジャンは事件の通報、援助獲得のため日本を離れ、1868年ローマ教皇・ピオ9世に謁見した。

 

 慶応4年(1868)幕府は瓦解するが、明治新政府は引き続きキリスト教を禁止、信徒の中心人物114名は流罪となり、津和野・萩・福山に移送された。

 

 その後明治3年(1870)までに浦上キリシタンが総配流となるなど次々と捕縛・流罪となり、流刑先で激しい拷問・私刑を受けた。これをローマで聞いたプティジャンは日本に戻り、信者釈放に尽力した。

 

 欧米各国も日本政府に激しく抗議、岩倉使節団一行も訪問先元首から禁教政策を非難され、これが不平等条約改正の大きなネックになった。
 
 明治6年(1873)日本政府は信徒を釈放した。配流された3394名のうち662名が命を落としたという。プティジャンは長崎を拠点に日本人信徒組織の整備や日本人司祭の養成に力を尽くした。

 

 明治17年(1884)プティジャンは大浦で死去、大浦天主堂内に埋葬された。

 

 

以下、現地案内板より

 

国宝 大浦天主堂

 

大浦天主堂はプティジャン司教の指導をもとに1865年2月19日に献堂式が行なわれた現存する日本で最古の教会です。1597年2月5日西坂の丘で殉教した日本二十六聖人に捧げられた教会で、殉教地の方向に向けて建てられました。
現在、殉教地である長崎駅前に位置する西坂には、二十六聖人を記念する聖フィリッポ教会、および二十六聖人に関連する資料を収蔵した記念館が整備されており、日本のカトリックから公式巡礼地に指定されています。