肥前 深江城 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①城跡碑

イメージ 2②熊野神社

イメージ 3③土塁跡

イメージ 4④熊野神社周辺

イメージ 5⑤熊野神社周辺

 

訪問日:2018年5月

 

所在地:長崎県南島原市

 

 島原の乱における島原半島側の総大将・馬場時次(有家監物)はキリシタン大名の有馬晴信に仕え、自身もキリスト教を信仰していたとされる。

 

 慶長19年(1614)晴信の子・有馬直純が日向延岡に転封の際にこれに従わず、有家村に隠居し、有家監物入道休意と称した。

 

 寛永5年(1628)妻や子を含む有家村の村民207名を率いて島原城下に押し寄せ、藩主・松倉重政に転宗の際の誓詞の返却を求めた。

 

 この時、息子の馬場内蔵丞は再度の転宗強制を拒否して処刑されたが、監物夫妻は免れている。監物の強訴の目的は信仰よりも減税にあったような気がする。

 

 監物は一揆を組織し、天草の同志と示し合わせて寛永14年(1637)挙兵、島原藩兵と深江で戦いこれを破り、引き揚げた島原藩兵は島原城に籠城した。

 

 一揆は日本国じゅうのキリシタンやポルトガルの援軍も期待していたとの指摘があるほどの本格的な反乱だったが、やがて九州諸藩による討伐軍が組織される。

 

 一揆は天草勢と合流して原城に籠り、3ヶ月の籠城の末、翌寛永15年(1538)落城、監物は父を一揆軍に討たれた板倉重矩との一騎討ちで討ち取られたという。

 

 監物の首は天草四郎らのものとともに原城大手門前、そして長崎出島の入口前に晒された。有家村の村民は全て討死し、無人の村となった。

 

 改易された松倉氏に替わり島原藩主となった高力忠房は農民に対して1年間の年貢免除、浪人らの移民奨励などの政策により島原を復興させた。

 

 

以下、現地案内板より

 

深江城跡

 

 深江城跡は、南島原市深江町一帯を治めていた安富氏のあったところです。「深江家系図」には、初代頼清の時、「正応5年12月6日、執権北条相模守平貞時の下文を賜って鎮西に下向」とあることから、1293(正応5)年以降地頭に着任したと思われます。
 着任当初は居館を建て、勢力の拡大にともなって深江城を築城したと考えられます。
 城郭の範囲や構造についての詳細は明らかになっていませんが、立地条件等から推察すると、深江町字古城に主郭を、その南、字城の谷に堀を配し、主郭の西には畔津川が流れる堅固な城郭であったと想定されます。
 1392(元中9・明徳3)年に南北朝が統一されましたが、島原半島ではそれ以降も、豪族が探題方と宮方に分かれ対立していましたが、やがて強大な勢力になった有馬氏に服属します。
 しかし、1584(天正12)年の沖田畷の戦いでは、安富氏は有馬氏を離れ龍造寺氏に味方したため、深江城は有馬・島津軍に包囲され、籠城戦になりました。籠城中、沖田畷で龍造寺隆信が戦死すると、安富氏は城を脱出し、現在の佐賀市水ヶ江町に去っていきました。

 

南島原市教育委員会