近江 三上陣屋 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①三上陣屋

イメージ 2②三上陣屋

イメージ 3③三上陣屋

イメージ 4④遠景

イメージ 5⑤移築表門(常永寺)

 

訪問日:2018年3月

 

所在地:滋賀県野洲市

 

 三上藩5代藩主・遠藤胤統は寛政5年(1793)美濃大垣藩主・戸田氏教の3男として江戸で生まれた。享和元年(1801)三上藩4代藩主・遠藤胤富の養子となり、胤富の娘・恭寿院を娶った。

 

 文化8年(1811)胤富の隠居により家督を継ぎ、江戸城田安門番・日光祭祀奉行・大坂城青屋口加番、江戸城馬場先御門守衛などを歴任した。

 

 大坂城玉造口定番を務めていた天保8年(1837)大塩平八郎の乱が勃発、城代・土井利位の下で玉造口と定番が未着任だった京橋口の守備を兼務して鎮圧に功を挙げた。

 

 天保12年(1841)若年寄に任ぜられ、翌年には2千石の加増を受け1万2千石となる。江戸城御勝手掛および西ノ丸造営奉行・海岸防御筋御用掛を命じられ、嘉永4年(1851)若年寄を退任する。

 

 その後も幕政に参与し、徳川将軍家と諸大名の婚姻の処理に携わったり、安政元年(1854)には内海台場築造用掛を命じられて品川台場構築に関わっている。

 

 安政6年(1859)には外国事務掛として、軍艦7隻で品川に来航し樺太全土はロシア領と主張する露東シベリア総督ニコライ・ムラヴィヨフ=アムールスキーと渡り合い、これを退けた。

 

 文久元年(1861)の孝明天皇の異母妹・和宮の14代将軍・徳川家茂への降嫁では交渉段階から関わり、婚姻大礼御用掛を務めた。

 

 文久3年(1863)71歳になった胤統は隠居を許され、3男・胤城(初代吉見藩主)に家督を譲った。明治3年(1870)78歳で死去。