播磨 虚空山 法界寺 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①本堂

イメージ 2②別所家廟所

イメージ 3③別所長治像

イメージ 4④別所氏家臣墓

イメージ 5⑤山門

イメージ 6⑥境内

 

訪問日:2018年2月

 

所在地:兵庫県三木市

 

 文明15年(1483)暮れ、赤松氏を再興した赤松政則は山名政豊配下の垣屋豊遠に播但国境の真弓峠の戦いで大敗し、姫路に逃れたが一時行方不明になるなどの大失態を演じ、権威は失墜した。

 

 これにより文明16年(1484)1月には赤松氏の実権は重臣の浦上則宗や小寺則職らが握り、政則は泉州堺に隠遁した。この時、政則を側近として支えたのが別所則治であった。

 

 同年3月、則治は政則を伴って入京して将軍・足利義尚に謁見させ、12月には前将軍・足利義政の仲介により則宗らと和睦して播磨復帰を果たした。

 

 政則は山名氏に対して反撃に転じ、文明17年(1485)3月、蔭木城の戦いで垣屋豊遠らを討ち取る大勝を収め、真弓峠の雪辱を果たし、長享2年(1488)ついに播磨から山名氏の勢力を駆逐した。

 

 この間に政則はこれまでの忠勤に対して則治に東播磨8郡の守護代の地位を与え、則治は則宗や宇野政秀と同等の立場を得た。

 

 延徳年間に(1489-91)菩提寺・法界寺を造営し、明応元年(1492)には新たな本拠・三木城を築き、領国の支配を固めた。

 

 明応2年(1493)細川京兆家の家宰・上原元秀と連携し、細川政元の姉・めし(洞松院)と政則の婚姻を実現するが、政則は明応5年(1496)42歳で急死した。

 

 政則には4歳の庶子・村秀があったが、則宗や則治・則職らは政則の遺志に従い、めしが産んだ小めしに一族七条家の赤松義村を婿養子として迎えて家督を相続させた。

 

 しかし、義村も幼かったことから明応8年(1499)則宗の専横を嫌う浦上村国らが新たに赤松勝範(大河内殿)を擁立したが、中立だった宇野政秀・赤松則貞父子が義村派に回ったため失敗に終わった。

 

 則治はこの時、やはり則宗の専横を恐れていたが、義村が成長するまでの措置として洞松院を推し、収拾後も洞松院や則治の権威は高まっていった。

 

 その後も則治は独自に領国の財政基盤を確立し、後に別所氏が戦国大名へと発展する基礎を築き、永正10年(1513)に亡くなった。則治の玄孫が長治である。

 

 

以下、現地案内板より

 

虚空山 法界寺

 

本尊 阿彌陀如来
開基 聖武天皇天平四年(732)行基菩薩
宗派 浄土宗西山禅林派

 

縁起 当寺は、行基菩薩が聖武天皇の勅願を奉じて諸国を行脚し此の地に錫を止められたおり、一翁が「此の地は和光同塵の地なり、よろしく伽藍を建立して衆生を化益せば、我常に守護して退転せさらん」と彌陀の尊像を与う。
 行基菩薩随喜の涙を流して信心肝に銘じ、翁の告げに応じて伽藍を建立し、宝祥祝寿鎮護国家の道場となし、虚空山と号し、法界寺と名付けた。
 その後、延徳年間に至り別所氏中興の祖則治は諸堂を造営し、別所家累代の菩提寺と定めた。
 さらに天正八年(1580)正月十七日、羽柴秀吉の三木城攻めにより城主別所長治公自害された際、遺体を当寺に埋葬する。
 慶長元年(1596)、杉原伯耆守により諸堂を再建、転輪石石塔及び霊廟を建設。次いで長治公百回忌に当たる延宝六年(1678)、禅空素伯和尚は三木郡十二町里の民衆に募縁し、東播八郡総兵別所府君墓表の碑を建立する。
 星霜移り、文政四年(1821)義空民礼和尚、低湿地にあった本堂、古裡等を境内の高地に移築する。こ)れ)が現在の伽藍で五輪石塔及び墓表の碑は建立当時のまま現在地にあり。霊廟は平成二十一年に再建。

 

別所長治公祥月命日法要

 

 当寺に長治公の遺体を埋葬後、命日の四月十七日には関係の老若男女が相集まり、公の冥福を祈る法要が続けられている。
 また三幅の三木城合戦絵図により、当時の壮烈な戦況と、公の遺徳を偲ぶ「絵解き」の行事が絶えることなく続けられている