①本堂
②別所家廟所
③別所長治像
④別所氏家臣墓
⑤山門
⑥境内
政則には4歳の庶子・村秀があったが、則宗や則治・則職らは政則の遺志に従い、めしが産んだ小めしに一族七条家の赤松義村を婿養子として迎えて家督を相続させた。
しかし、義村も幼かったことから明応8年(1499)則宗の専横を嫌う浦上村国らが新たに赤松勝範(大河内殿)を擁立したが、中立だった宇野政秀・赤松則貞父子が義村派に回ったため失敗に終わった。
則治はこの時、やはり則宗の専横を恐れていたが、義村が成長するまでの措置として洞松院を推し、収拾後も洞松院や則治の権威は高まっていった。
開基 聖武天皇天平四年(732)行基菩薩
宗派 浄土宗西山禅林派
縁起 当寺は、行基菩薩が聖武天皇の勅願を奉じて諸国を行脚し此の地に錫を止められたおり、一翁が「此の地は和光同塵の地なり、よろしく伽藍を建立して衆生を化益せば、我常に守護して退転せさらん」と彌陀の尊像を与う。
行基菩薩随喜の涙を流して信心肝に銘じ、翁の告げに応じて伽藍を建立し、宝祥祝寿鎮護国家の道場となし、虚空山と号し、法界寺と名付けた。
その後、延徳年間に至り別所氏中興の祖則治は諸堂を造営し、別所家累代の菩提寺と定めた。
さらに天正八年(1580)正月十七日、羽柴秀吉の三木城攻めにより城主別所長治公自害された際、遺体を当寺に埋葬する。
慶長元年(1596)、杉原伯耆守により諸堂を再建、転輪石石塔及び霊廟を建設。次いで長治公百回忌に当たる延宝六年(1678)、禅空素伯和尚は三木郡十二町里の民衆に募縁し、東播八郡総兵別所府君墓表の碑を建立する。
星霜移り、文政四年(1821)義空民礼和尚、低湿地にあった本堂、古裡等を境内の高地に移築する。こ)れ)が現在の伽藍で五輪石塔及び墓表の碑は建立当時のまま現在地にあり。霊廟は平成二十一年に再建。
別所長治公祥月命日法要
また三幅の三木城合戦絵図により、当時の壮烈な戦況と、公の遺徳を偲ぶ「絵解き」の行事が絶えることなく続けられている