相模 鎌倉宮/理智光寺/護良親王墓 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①鎌倉宮拝殿

イメージ 2②鎌倉宮鳥居

イメージ 3③土牢

イメージ 4④理智光寺址碑

イメージ 5⑤護良親王墓

イメージ 6⑥護良親王墓

 

訪問日:2017年11月

 

所在地:神奈川県鎌倉市

 

 元弘3年(正慶2・1333)鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇の建武政権において鎌倉には鎌倉将軍府が置かれ、鎌倉府将軍・成良親王を奉じた足利直義が執権を務めた。

 

 建武元年(1334)父天皇と不和となった征夷大将軍・護良親王が皇位簒奪を企てたとして失脚し、鎌倉の直義のもとに送られて東光寺に幽閉された。

 

 建武2年(1335)信濃の諏訪頼重らに擁された北条高時の遺児・時行が鎌倉へ向け進軍し、将軍府の軍勢を撃破、鎌倉から出陣した直義も敗れた。

 

 直義は鎌倉を脱出して成良親王を京都に逃がし、自らは駿河に落ちることを決意した。この時、直義は護良親王が時行に奉じられることを恐れ、家臣の淵辺義博に護良親王殺害を命じる。

 

 義博は淵野辺城(現・相模原市中央区淵野辺)を拠点とする相模国高座郡大野村淵辺原の地頭である。義博は格闘の末に護良親王を討ち取った。

 

 義博は両眼を見開いたままの親王の首を中国の故事にならって近くの薮の中に首を捨て、これを理智光寺の僧が拾って寺の前の山上に葬ったという。

 

 鎌倉は京都から直義の兄・足利尊氏が駆けつけ、20日余りで奪還された。尊氏は天皇の上洛命令を無視して鎌倉に留まり、勝手に恩賞を与えるなどして建武政権から離脱した。

 

 天皇は新田義貞に尊氏・直義兄弟追討を命じ、直義がこれを駿河で迎え撃ったが敗れ、義博は手越河原で討死した。

 

 東光寺はその後廃寺となっていたが、明治2年(1869)明治天皇が護良親王を祀る神社の造営を命じ、東光寺跡に鎌倉宮が造営された。

 

 

以下、現地碑文・案内板より

 

鎌倉宮

 

●祭神 護良親王
●創建 明治2年(1869)

 

 後醍醐天皇の皇子である護良親王を祭神とする神社です。
 護良親王は、後醍醐天皇の鎌倉幕府討幕の動きに呼応して幕府軍と戦うなど、貢献しました。
 幕府が滅亡し天皇親政が復活(建武の新政)すると征夷大将軍に任じられましたが、その後足利尊氏と対立して捕らえられ、28歳で非業の最期を遂げました。社殿の後ろ手に残る土牢が親王最期の地と伝えられています。
 10月には境内で薪能が催されます。

 

鎌倉市

 

 

理智光寺跡

 

此所は願行上人を開山とせし五峰山理智光寺の址なり建武2年淵邊伊賀守義博は足利直義の命を承け護良親王を弑し奉りしが其御死相に怖れ御首を傍なる薮中に捨て去りしを当寺の住僧拾ひ取り山上に埋葬し奉りしといふ

 

昭和7年3月建 鎌倉町青年団