丹波 山垣城 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①大手居館跡

イメージ 2②二重堀切

イメージ 3③堀切

イメージ 4④南の平

イメージ 5⑤三の丸

イメージ 6⑥本丸

 

訪問日:2016年12月

 

所在地:兵庫県丹波市

 

 山垣城主の足立氏は鎌倉幕府創立の功臣の一人で、武蔵国足立郡の地頭職を得て幕府の十三人の合議制に名を連ねた足立遠元を祖としている。

 

 遠元の嫡曾孫にあたる足立直元は弘安8年(1285)霜月騒動により、親族である安達泰盛とともに滅ぼされ、嫡流は没落したが、遠元の孫の一人・足立遠政が丹波国氷上郡佐治郷の地頭となり、その子孫が丹波に移り住んだ。

 

 丹波足立氏は南北朝時代には南朝に与し、戦国時代に黒井城主・荻野氏が台頭するとその傘下に入り、但馬との国境警備の任務にあたっていた。

 

 元亀2年(1571)足立基晴の時、但馬の山名祐豊が攻め入り、山垣城は落城したが、山名氏に内紛が起こり、祐豊が撤退したのですぐに復帰を果たした。

 

 天正3年(1575)には逆に荻野直正が但馬へ進攻し、太田垣輝延の竹田城を占拠したが、輝延が織田信長に救援を求めたため、明智光秀の丹波進攻を招く結果となった。

 

 天正7年(1579)丹波は織田軍の一斉攻撃を受け、山垣城は但馬から羽柴秀長の攻撃を受け、城主・足立基助以下の奮戦も虚しく落城した。

 

 足立氏の残党は帰農して、現在でも周辺には多くの足立姓の方々が暮らしているという。

 

 

以下、現地案内板より

 

史跡山垣城址と足立氏

 

 山垣城(万歳城)は丹波の名族足立氏居城であった。「尊卑分脈」によると足立氏は遠く藤原鎌足を祖とし14世遠兼が武蔵国足立郡を領した。15世遠元が足立氏を称し、武勇の誉れ高く、鎌倉幕府・源頼朝の武道指範となる。その孫遠政が佐治郷を賜り承元3年(1209)、この地に移り住み、万歳山に山城を築いた。
 以来12代370余年、足立氏の本拠として栄え、足立氏の盛衰と運命をともにした。
 天正年間、12代城主・弥三郎基助の時織田信長の丹波攻めにあい但馬から遠坂峠を越え侵攻してきた羽柴秀長の軍勢と明智光秀の軍勢との挟撃にあい、激戦のすえ、天正7年(1579)5月18日に落城した。
 城跡は北から南へ、本丸、二の丸と曲輪跡が連なり、馬場、堀切、土塁の跡もみられ、山麓には「堀の内」「垣の内」の地名がある。
 なお、埼玉県桶川市(武蔵国足立郡)に遠元公館跡があり、桶川市史には義を守り友情に厚い武将で源頼朝・政子の信任も厚かったと記されている。

 

昭和61年11月15日

 

制作・寄贈 大阪市住之江区南港足立景一(山垣平地)
調査資料  平治物語、吾妻鏡、尊卑分脈、姓氏家系大辞典
      青垣町誌、桶川市史、日本城郭大系、丹波志
協力  城郭研究家 朽木史郎  桶川市史主任 田中利治