摂津 寺岡砦(神須牟地神社) | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①拝殿

イメージ 2②境内

 

訪問日:2016年9月

 

所在地:大阪市住吉区

 

 天正18年(1590)豊臣秀吉の養子・秀康(徳川家康の次男)が結城氏の家督を継ぐと、家臣の常陸下妻城主・多賀谷重経はこれに不満を持って佐竹氏に転じ、秀康に従った嫡男・三経を追放した。

 

 重経は佐竹義重の4男・宣家に家督を譲るが、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで重経は上杉景勝に通じて戦後に改易の憂き目にあう。

 

 一方、秀康は景勝の南下を防いだ功により越前に加増転封され、三経も秀康に従い、越前国柿原に3万2千石を領した。ほかに一族と思われる多賀谷氏を名乗る家臣として多賀谷靭負(150石)らの名前がある。

 

 三経は慶長12年(1607)主君・秀康病死の3ヶ月後に30歳の若さで病死し、10歳の泰経が家督を継いだが、遺領の多くは越前藩の直轄領とされたようだ。

 

 秀康の跡を継いだ松平忠直は、慶長20年(1615)真田信繁を討ち取り、大坂城一番乗りを果たす戦功をあげるが、この戦いで泰経は重傷を負い、翌年に後継のないまま19歳で亡くなった。急遽重臣の中から養子・経政を立てたが相続は認められず、柿原多賀谷氏は断絶した。

 

 さらに元和9年(1623)忠直が乱行を理由に幕府から廃されて豊後国大分に配流され、越後高田藩主となっていた弟・忠昌が越後の家臣を連れて転封してきた。

 

 この時、多賀谷靭負は藩からリストラされたようで、浪人してこの寺岡の地に土着したらしい。宗家の経は浪人のまま生涯を終えたが、その子・経栄は秀康の孫・直矩(秀康5男・直基の子)に仕え、川越多賀谷氏初代となり、その家系は明治維新まで続いた。

 

 

以下、現地案内板より

 

神須牟地神社由緒

 

延喜式内の古社であって三の宮と称され遠く二千年昔の御創建である
御祭神 神産霊大神・天日鷲命・少名彦命
本社は古来酒造将又医薬の祖神として信仰厚く又文武両道の守護神として御神徳顕著であった
本社殿は慶長年間、兵火にかかったが豊臣の浪人多賀谷氏外四名の協力で元和四年八月二十一日再建された
元文元年九月徳川幕府は本社および多米神社の廃滅に瀕せしを憂い幕吏菅廣房に命じ「神須牟地社」「多米社」と刻せる石碑二基を双方の地に建立せしめ今尚現存している

 

境外末社 多米神社は延喜式内の旧い社で別名を「苗見神社」又は「種貸神社」とも言われ崇敬された
御祭神 宇賀魂命・神稚魂神・保食神

 

境内末社 農神社は農耕の神として農民の尊敬された
御祭神は大己貴命。

 

当神社御祭礼日
 夏大祭 七月二十一日  秋例祭 十月二十一日  月例祭 毎月二十一日