山城 賀茂別雷神社(上賀茂神社) | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①楼門

イメージ 2②細殿・橋殿・土舎

イメージ 3③細殿・立砂

イメージ 4④新宮神社

イメージ 5⑤ならの小川

イメージ 6⑥斎王桜

 

訪問日:2013年4月

 

所在地:京都市北区

 

 祇園御霊会(祇園祭)が庶民の祭りだったのに対し、旧暦4月の中の酉の日に上賀茂・下鴨両社で行われる葵祭は石清水祭・春日祭とならぶ三勅祭の1つで、平安貴族たちの間では単に「祭り」といえばこの祭りのことであった。葵祭と呼ばれるようになったのは、応仁の乱以来200年以上途絶していた祭りが元禄7年(1694)に再興されてからのことである。

 

 平安時代初期、平城上皇が弟・嵯峨天皇と対立し、平城京に都を戻そうとした際、嵯峨天皇は王城鎮守の神・賀茂大神に対し、勝利の暁には皇女を賀茂神社の儀式に奉仕する女性として捧げると祈願をかけた。

 

 そして弘仁元年(810)薬子の変で嵯峨天皇方が勝利すると天皇は4歳の第8皇女・有智子内親王を斎王とし、初代賀茂斎院となり、天長8年(831)病により退下するまで22年間務めた。

 

 有智子内親王は勅撰漢詩集・経国集に10首が遺される、日本史上数少ない女性漢詩人の1人であったが、承和14年(847)41歳で亡くなった。嵯峨野の落柿舎の隣に墓がある。

 

 その後、後鳥羽天皇の第3皇女・礼子内親王が建暦2年(1212)病により退下するまで、35人の内親王・女王が斎王となったが、承久3年(1221)に起こった承久の乱後の混乱と資金不足により斎院制度は廃絶となった。

 

 昭和31年(1956)以降は斎王代が創設され、京都ゆかりの一般女性がその役目を務めている。