山城 音羽山 清水寺 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①本堂舞台

イメージ 2②本堂舞台

イメージ 3③本堂舞台

イメージ 4④本堂舞台

イメージ 5⑤仁王門と三重塔

 

訪問日:2013年1月

 

所在地:京都市東山区

 

 宝亀11年(780)鹿を捕まえようと音羽山に入った23歳の坂上田村麻呂が修行中の開基・延鎮に出会い、殺生の罪を説かれ、観音に帰依して観音像を祀るため自邸を本堂として寄進したという。

 

 延暦8年(789)征東大将軍・紀古佐美が率いる朝廷軍は阿弖流為の率いる蝦夷軍に大敗した。そして延暦13年(794)大伴弟麻呂を征夷大将軍とする征討軍に田村麻呂は副将軍として加わり活躍した。

 

 延暦15年(796)田村麻呂は陸奥按察使・陸奥守・鎮守将軍を兼任し、翌延暦16年(797)には征夷大将軍に任じられた。延暦17年(798)には延鎮とともに音羽山の本堂を大規模に改築したという。

 

 延暦20年(801)田村麻呂は陸奥に遠征して決定的な戦果を挙げて帰京、翌延暦21年(802)陸奥に戻って胆沢城を築き、阿弖流為や母礼ら500余人の降伏を受け入れ、2人を連行して帰京して助命を提言するが、朝廷はこれを赦さず、阿弖流為と母礼は河内で処刑された。

 

 蝦夷の抵抗が全て終わったわけではなく、延暦23年(804)田村麻呂は再び征夷大将軍に任じられ、3度目の遠征が準備されたが、徳政を主張する藤原緒嗣の反対により中止された。

 

 延暦24年(805)参議に列した田村麻呂は太政官符により寺地を賜る。翌大同元年(806)中納言となり、大同2年(807)右近衛大将に任じられた。

 

 大同4年(809)平城還都を目指す平城上皇と弟の嵯峨天皇が対立した際には上皇から平城還都の造営使に任じられる。しかし、翌大同5年(弘仁元・810)の薬子の変で天皇側につき勝利に貢献した。

 

 同年、田村麻呂は大納言となり、音羽山の寺は天皇の勅許を得て公認され「北観音寺」の寺号を賜った。のちに清少納言が『枕草子』の中で「さわがしきもの」として清水観音の縁日を挙げるほどの賑いが伝わっている。

 

 弘仁2年(811)54歳で病死した。平成6年(1994)清水寺境内に平安遷都1200年を記念して「阿弖流為・母礼顕彰碑」が建立された。
 
 
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