伊予 川之江城 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①模擬天守

イメージ 2②模擬本丸門

イメージ 3③本丸石垣

イメージ 4④畠山城方向の眺望

イメージ 5⑤石垣

イメージ 6⑥城跡碑と石垣

 

訪問日:2010年8月

 

所在地:愛媛県四国中央市

 

 康永元年(興国3・1342)南朝方の中国・四国方面の総大将・脇屋義助(新田義貞の弟)が伊予国府で急死した(享年38)。

 

 北朝の讃岐・備後守護の細川頼春はこれに乗じて伊予に侵攻し、南朝方の伊予守護・大舘氏明を世田城に滅ぼし、伊予守護に任ぜられ、元伊予守護であった河野通盛と対立したとされる。

 

 案内板では河野氏は南朝方とされているが、通盛は北朝方で建武3年(延元元・1336)から建武5年暦応元・1338)まで足利尊氏により伊予守護に任じられ(頼春の前任は岩松頼有)ており、土肥義昌を川之江城に配したのは南朝方の別系統の河野氏かもしれない。

 

 観応の擾乱の最中の観応元年(正平5・1350)通盛は足利尊氏・直義双方から伊予守護に再任されている。通盛はその後尊氏方に与して直義方・南朝方と戦った。

 

 観応の擾乱が終結し、文和3年(正平9・1354)頼春の子・頼之が通盛に替って伊予守護となるが、康安2年(正平17・1362)失脚した細川清氏が讃岐に逃れると、頼之は通盛に伊予守護職を返還するとともに幕命として清氏討伐を命じた。

 

 しかし細川氏の勢力拡大を嫌った通盛は頼之と清氏の共倒れを狙ってこれを黙殺するが、頼之は早々に清氏を滅ぼし、頼之の恨みを買うだけの結果となってしまった。

 

 貞治2年(正平18・1363)通盛は嫡男・通朝に家督を譲るが、翌貞治3年(正平19・1364)頼之は幕命を得て通朝を世田山城に討ち取り、直後に通盛も病死した。

 

 河野氏が明らかに南朝方に転じたのは通朝の子・通堯が伊予から逃れ、九州・大宰府で南朝の征西大将軍・懐良親王に謁した貞治4年(正平20・1365)のことである。

 

 

以下、現地案内板より

 

川之江城史

 

南北朝動乱の頃(約650年前)南朝方、河野氏の砦として、土肥義昌が延元2年(1337)鷲尾山(城山)に川之江城を築いた。
興国3年(1342)北朝方、細川頼春が讃岐より七千の兵を率いて攻めてきた。
義昌は出城の畠山城主由良吉里と共に防戦したが破れ、城を落のびて各地を転戦した末、武蔵国矢口の渡で戦死している。
細川氏の領有後、河野氏に返され、城主は妻鳥友春になった。元亀3年(1572)阿波の三好長治が攻め入ったが、撃退している。
土佐の長曽我部氏の四国平定の力に抗しきれなかった友春は、河野氏に背いて長曽我部氏に通じた。怒った河野氏は河上但馬守安勝に命じて城を攻めとらせた。天正7年(1579)前後のことと思われる。河上但馬守は轟城の大西備中守と戦い、討たれたという話も残っているが、天正10年(1582)長曽我部氏の再度の攻撃に破れ、戦死落城している。その時、姫ケ嶽より年姫が飛込んで自殺したという悲話伝説も残っている。
天正13年(1585)豊臣秀吉の四国平定に破れ、小早川、福島、池田、小川と目まぐるしく領主が替り、加藤嘉明の時最終的に廃城になった。数々の攻防は川之江が地理的に重要な位置にあった為の悲劇ともいえる。
戦国の世も終わった寛永13年(1636)一柳直家が川之江藩28,600石の領主になり城山に城を築こうとしたが寛永19年(1642)病没。領地は没収されて幕領となり明治に至ったため、わずか6年の「うたかたの川之江藩」で終わった。