①大手櫓門
②大手櫓門
③大手櫓門石垣
④大手櫓門石垣
⑤三の丸
⑥三の丸からの遠景
訪問日:2008年7月
所在地:千葉県富津市
上総武田氏は甲斐守護・武田信満の次男・武田信長を祖とし、嫡流は庁南城に本拠を置いたが、分家は真里谷城に本拠を構えて真里谷氏を称した。
真里谷恕鑑長子・真里谷信隆は、天文2年(1533)安房里見氏の里見義堯と里見義豊の間で内紛(稲村の変)が起こると、父が義豊を支持したのに反し、相模北条氏とともに義堯を支持した。
翌天文3年(1534)内紛は義堯の勝利に終わり、恕鑑も同年に病死すると、嫡子・信応を差し置いて真里谷氏の家督を相続し、北条氏への従属姿勢を強めていく。
しかし小弓公方・足利義明や盟友だったはずの義堯が信応を支持したため信隆は北条氏や古河公方・足利晴氏と結んで対抗するが、天文6年(1537)佐貫城を攻略されて降伏し、北条氏を頼った。これにより信応が家督を奪い、佐貫城には叔父の真里谷全方が入った。
ところが、天文7年(1538)第一次国府台の戦いで義明・義堯・信応は北条氏綱に大敗し、義明は討死、真里谷城は北条氏の手に落ち信応は降伏、信隆が復権を果たし椎津城に拠った。
しかしその後も信隆・信応兄弟の内紛は続いて北条氏や里見氏の介入を招き、天文13年(1544)には信隆方の真里谷朝信の小田喜城が里見氏家臣・正木時茂に奪われた。
天文20年(1551)信隆が死去し、天文21年(1552)跡を継いだ真里谷信政が義堯に攻められると、信応は突如里見氏に叛旗を翻して甥・信政を支援する。
しかし時すでに遅く、同年11月4日椎津城が陥落して信政は自害、3日後に信応もその後を追い、真里谷氏は衰退した。
以下、現地案内板より
佐貫城
佐貫城(亀城)は室町時代にさかのぼり文安年間に長尾氏応永年間に武田氏の築城説あり其の後里見、武田、朝倉、加藤、大河内、の諸氏城主となったといわれる。
天正年間 内藤家長、同政長
元和年間 松平忠重、
寛永寛文年間 松平勝隆、同重治
一時廃城
元禄年間 柳沢保明
一時廃城
宝永7年5月阿部正鎮三河刈屋城より移り(1万6千石)それより正興、正賀、正實、正簡、正暠、正身の居城たり、8代正恒の時明治維新によって廃城(明治4年5月)となる
城連