①本丸
②本丸
③本丸
④弓の里歴史文化館
⑤復元図
⑥本丸西側遠景
訪問日:2016年7月
所在地:富山県中新川郡上市町
時間に余裕があったので訪ねてみたが、残念ながら歴史文化館はすでに閉館しており、本丸址碑(写真①左端か)も見逃してしまっていた。
越中土肥氏は土肥実平を祖とし、鎌倉時代から新川郡堀江庄の地頭職としてその名が見え、戦国時代には神保氏に属して、永正17年12月(1521年1月)新庄合戦で長尾為景に敗れ、また天文12年(1543)からの越中大乱で堀江の本家は没落したが、庶流の弓庄土肥氏は命脈を保ち、土肥政繁は上杉謙信に臣従した。
天正6年(1578)謙信が急死すると、政繁は織田信長の調略を受け、他の越中国人たちとともに織田方に寝返ったが、やがて御館の戦いに勝利して上杉氏を相続した上杉景勝に帰参している。
天正9年(1561)神保長住救援のため越中に派遣されていた佐々成政が越中半国を与えられ、越中一国の平定に乗り出し、同年8月弓庄城を攻めるが、政繁はこれを撃退した。
しかし翌天正10年(1582)再び成政の攻撃を受けると、景勝の後詰が得られず、政繁は降伏する。しかし同年、本能寺の変が起こるとまたも上杉氏に寝返る。
天正11年(1583)成政の越後出兵の隙を衝き、太田新城を奪う武功を挙げるが、景勝・成政・羽柴秀吉の三者が和睦したため、立場を失った政繁は弓庄城を立ち退き、越後の景勝を頼った。
天正12年(1584)10月、秀吉に叛旗を翻した成政を牽制するため上杉軍は越中に兵を出し、政繁も宮崎城攻略で戦功を挙げるが旧領回復には至らなかった。
天正18年(1590)政繁は越中に戻れぬまま越後国能生で死去、後に一族が出羽最上氏に仕えるが、最上騒動に巻き込まれて自害し、越中土居氏は滅亡する。
以下、現地案内板より
埋蔵文化財包蔵地 弓庄城跡
概要
本城跡は、戦国時代に新川郡一帯を領していた土肥氏の居城跡である。土肥氏は相模国土肥郷(伊豆河原町付近)を本領とした土肥次郎実平(源頼朝の功臣)を祖とするといわれる。越中入部は正平年間(南北朝期)であったと伝えられる。当初は、堀江荘(滑川市堀江)に本拠があったといわれるが、室町時代から戦国時代には次第に在地領主化していったものと考えられる。その過程の中で本拠を本地に移していった。天正年間には越中平定を目指す佐々成政の攻撃を受け、一年余りの激しい攻防の末、開城した。ここに土肥氏の支配は終焉を迎え、佐々成政による越中支配が確立した。
城の範囲は、南北約600m、東西約150mにわたるが、そのうち本丸にあたる約20000㎡が上市町指定史跡の対象地となっている。
ここでは昭和55年から5年間にわたって発掘調査が行なわれ、濠跡・土塁・建物跡・井戸などの遺構が見つかった。また燈明皿・珠洲焼・中国製磁器などの焼物のほか木製品(箸・椀・柄杓・下駄・曲物・櫛など)や金属製品(刀・鎧片・鉄砲の弾・かんざしなど)多数の遺物が出土しており、当時の生活の様子がうかがわれる。
周辺はその後のほ場整備で姿を変えたが、本丸周辺はそのまま保存されており、往時をしのばせている。
なお、指定内容は次の通りである。
本城跡は、戦国時代に新川郡一帯を領していた土肥氏の居城跡である。土肥氏は相模国土肥郷(伊豆河原町付近)を本領とした土肥次郎実平(源頼朝の功臣)を祖とするといわれる。越中入部は正平年間(南北朝期)であったと伝えられる。当初は、堀江荘(滑川市堀江)に本拠があったといわれるが、室町時代から戦国時代には次第に在地領主化していったものと考えられる。その過程の中で本拠を本地に移していった。天正年間には越中平定を目指す佐々成政の攻撃を受け、一年余りの激しい攻防の末、開城した。ここに土肥氏の支配は終焉を迎え、佐々成政による越中支配が確立した。
城の範囲は、南北約600m、東西約150mにわたるが、そのうち本丸にあたる約20000㎡が上市町指定史跡の対象地となっている。
ここでは昭和55年から5年間にわたって発掘調査が行なわれ、濠跡・土塁・建物跡・井戸などの遺構が見つかった。また燈明皿・珠洲焼・中国製磁器などの焼物のほか木製品(箸・椀・柄杓・下駄・曲物・櫛など)や金属製品(刀・鎧片・鉄砲の弾・かんざしなど)多数の遺物が出土しており、当時の生活の様子がうかがわれる。
周辺はその後のほ場整備で姿を変えたが、本丸周辺はそのまま保存されており、往時をしのばせている。
なお、指定内容は次の通りである。
上市町指定文化財
指定年月日 昭和34年3月12日 所在地 上市町舘西円場 所有者及び管理団体 水田所有者
平成14年10月 富山県教育委員会 上市町教育委員会