①本丸背後に白鳥城
②本丸内部
③本丸から二の丸
④二の丸・右郭
⑤二の丸虎口
⑥遠景
訪問日:2016年7月
所在地:富山県富山市
天正12年(1584)小牧・長久手の戦いが発生すると、当初羽柴秀吉につく姿勢を見せていた佐々成政が徳川家康・織田信雄方に転向し、羽柴方の前田利家の末森城を攻めた。
しかし、信雄が秀吉と和睦し、家康も兵を退くと、孤立を恐れた成政は厳冬の飛騨山脈・立山山系を越え(さらさら越え)遠江浜松城まで踏破し、家康に再挙を促すが、説得に失敗した。
天正13年(1585)6月、羽柴秀長を総大将として信雄・家康方であった四国の長宗我部元親を降した秀吉は、7月に関白に就任する。
そして8月、成政討伐を決意した秀吉は、信雄を総大将とする10万といわれる越中攻めの兵を挙げる。成政に味方するのは飛騨松倉城の姉小路氏と帰雲城の内ケ島氏のみで合わせて約2万兵であった。
成政は富山城に兵を集中配備させ、秀吉軍の来襲に備えた。総大将の信雄は白鳥城に本陣を置き、その支城である安田城には前田家の武将・岡嶋一吉が入った。
以下、現地案内板より
史跡 昭和56年2月23日指定 安田城跡
この城は、呉羽山丘陵東南麓、井田川左岸の扇状地に立地する戦国時代の平城です。堀を含めた規模は東西約150m、南北約240mです。
天正13(1585)年、全国統一をめざす豊臣秀吉が越中の佐々成政を攻めた際、秀吉の本陣となった白鳥城の支城として築かれました。前田家部将の岡嶋一吉が居城後、代官の平野三郎左衛門が居城しましたが、後に廃城になりました。
本丸、二の丸、右郭の郭の回りに、井田川から水を引き入れた堀がめぐらされていました。本丸と二の丸には高さ約2.4mに復元される土塁が存在しました。このような城の構造は、江戸時代文化年間に富山藩士安達淳直・直章による「安田古城之図」と一致します。安田城跡のように保存状態が良く全体像が分かる平城は、全国的に少なく貴重な事例です。
出土品の約9割はかわらけで占められ、油を燃やして明かりをとる燈明皿として用いられたものが多くあります。また瀬戸美濃の天目茶碗や中国製の染付皿、越中瀬戸の皿・すり鉢などの陶磁器のほか、短刀、鉄釘、銅銭、砥石、坩堝(金属を溶かす容器)、鉄滓などが出土しました。
平成22年1月 富山県教育委員会 富山市教育委員会
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