①案内板
②水場か
③城跡入口
訪問日:2011年10月
所在地:大阪府茨木市
砦とはいえ3つの曲輪を有する山城であり、安威城の詰城と考えられている。案内板まではたどりついたがブッシュに恐れをなして撤退してしまい未攻略である。
丹波八上城主・波多野稙通は丹波波多野氏の祖・波多野秀長の子で、弟に柳本賢治・香西元盛、子に波多野晴通、孫は明智光秀と戦った波多野秀治である。
大永6年(1526)弟・元盛が管領・細川高国に謀殺されると賢治とともに叛旗を翻し、高国の討伐を受けるがこれを撃退し、高国の政敵・細川晴元に援軍を求め、三好勝長・政長兄弟が阿波から泉州堺に上陸した。
大永6年(1526)弟・元盛が管領・細川高国に謀殺されると賢治とともに叛旗を翻し、高国の討伐を受けるがこれを撃退し、高国の政敵・細川晴元に援軍を求め、三好勝長・政長兄弟が阿波から泉州堺に上陸した。
翌大永7年(1527)稙通・賢治も丹波を出て京都西岡・野田城を攻略、続いて南下して山崎城を攻略して摂津守護代・薬師寺国長を追い払い、さらに摂津に入って芥川城・太田城・茨木城・安威城(安威砦)・福井城・三宅城を攻略した。
山崎城で三好勢と合流した稙通・賢治は桂川を挟んで高国勢と対峙、2月13日、勝長が瀕死の重傷を負うものの三好・波多野連合軍の大勝に終わり。高国は将軍・足利義晴を奉じて近江坂本に落ち延びて行った。
晴元にその実力を認められた稙通は幕府評定衆に列せられた。また、稙通の娘は天文9年(1540)三好長慶に嫁ぎ、天文11年(1542)義興を産んでいるが、稙通死後の天文17年(1548)離縁されている。
以下、現地案内板より
安威砦跡
このあたりは、東西にのびる花園山丘陵の東端にあたり標高89mの、通称「天神山」とも「城の森」とも呼ばれているところです。ここに北から南にかけて三箇所の郭が並び、その周囲に堀などの施設をもった城(砦)があり、現在も東西50m南北100mの間に遺構を残しています。
築城の時期は、鎌足の城とも楠氏が築くともいわれていますが、いずれも後世の付け足しと思われ、詳しい事はわかっていません。
「足利季世記」大永6年(1526)桂川合戦の条に「山崎の城落チケレバ、摂津上郡芥川城、茨木城、安威城、福井城、三宅城等聞落ニシテ明引くケル」と記されており、かなり慌ただしい当時の様子をうかがわれます。廃城の時期については、安威弥四郎の子で秀吉の被官として重要な職にあった五左衛門了佐が、天正14年(1586)に茨木城主となった頃と考えられますが、その後、豊後竹田(大分県)の中川家の家臣として残った安威氏の系譜によると、了佐の子・勝宗は安威城主であったとの記載があるようです。
築城の時期は、鎌足の城とも楠氏が築くともいわれていますが、いずれも後世の付け足しと思われ、詳しい事はわかっていません。
「足利季世記」大永6年(1526)桂川合戦の条に「山崎の城落チケレバ、摂津上郡芥川城、茨木城、安威城、福井城、三宅城等聞落ニシテ明引くケル」と記されており、かなり慌ただしい当時の様子をうかがわれます。廃城の時期については、安威弥四郎の子で秀吉の被官として重要な職にあった五左衛門了佐が、天正14年(1586)に茨木城主となった頃と考えられますが、その後、豊後竹田(大分県)の中川家の家臣として残った安威氏の系譜によると、了佐の子・勝宗は安威城主であったとの記載があるようです。
茨木市教育委員会