①正殿と御庭(うなー)
②北殿
③奉神門
④城壁
⑤歓会門
⑥守礼門
清は日本の軍事行動に激しく反発して撤兵を要求、明治政府は9月に大久保利通を北京に派遣し、清に日本の出兵は義挙であると認めさせ、50万両の賠償を受け取ることで決着した。これは琉球の帰属問題で日本に有利に働いたが、清は無論これを正式に認めてはいない。
明治8年(1875)内務大丞・松田道之が琉球に派遣され、清との冊封と朝貢関係の廃止、明治年号の使用を命令するが、尚泰は朝貢関係を維持することを表明し、清もこれに抗議して決着はつかなかった。
明治12年(1879)1月、松田が再度琉球に入り、清との絶交を督促するが琉球の同意は得られなかった。
同年3月、三度松田が琉球に入り、軍隊300名余・警官160名余を率いて首里城に入城、城の明け渡しと廃藩置県を布告、沖縄県が設置され、尚泰は東京移住を命じられた。
清はこれに抗議し、八重山出兵まで検討したが、アメリカ元大統領・グラントの仲介で明治13年(1880)北京で日清の交渉が行われた。
この時日本側が提案した、沖縄諸島を日本領、八重山列島・宮古列島を清領とする案で纏まりかけたが、あくまでも琉球王国の再興を目論む清側と分断に対する琉球人の反対により調印はなされなかった。
この領有権問題の決着は明治28年(1895)日清戦争に勝利した後の下関条約の調印まで待たなければならなかった。
正殿は、琉球国の重要な政治や諸儀式が執り行われたところで、首里城の最も中心的な建物です。木造で本格的に復元された城内最大規模のこの建物は、日本や中国などの影響を受けた琉球建築の特質を良く備えています。
北殿は、行政上の手続きや文書作成、重臣による会議などが行われた王府の役所でした。また、中国からの使者が来城した際には、この建物で使者をもてなす宴が催されました。
奉神門
奉神門は、正殿に向かう時くぐる最後の門となります。建物の北側には日用品を管理する「納殿」、南側には神女たちが神をもてなす「君誇」と呼ばれるところがありました。
南殿は、日本風の年賀や節句の儀式などが行われたところで、薩摩藩の奉行もここでもてなしました。番所は、城内の取次を行うところで、玄関の役割も果たしていました。
御庭は、重要な催事や外交上の諸儀式が執り行われた広場です。中国から使者が来た際には、この庭に舞台を設け琉球芸能が披露されました。
守礼門
城外の坊門(町の飾り門)の一つで、1529年に創建された。
歓会門
西向きに構築された首里城の第一門であり正門である。