播磨 深志野構居 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①妙見神社

イメージ 2②妙見神社

イメージ 3③妙見神社

イメージ 4④大歳神社

イメージ 5⑤大歳神社から浦山

イメージ 6⑥大歳神社カラ斎藤山

 

訪問日:2016年3月

 

所在地:兵庫県姫路市

 

 深志野構居の位置は姫路市御国野町深志野の大歳神社付近とする説と浦山南麓付近あるいは南尾根筋付近とする説とがあり、案内板は浦山南麓の妙見神社の鳥居前にある。

 

 特に「軍師官兵衛」の大河ドラマの頃は、官兵衛ゆかりの地として紹介されていたようだが、大歳神社のほうはそれらしい面影も見あたらなかった。

 

 「播磨鑑」によると、小寺孫四郎または小寺官兵衛が領主であったとされている。天正6年(1578)三木城の別所氏が織田氏に叛旗を翻すと呼応した毛利軍が織田氏に残った別所重棟の阿閉城(別府城)を攻めた。

 

 この時、官兵衛が救援に赴き、1,000の兵で防ぎきった。「増補播陽里翁説」によると、その後毛利軍が尼子氏が拠る上月城を包囲したので、秀吉はその救援に向い、その隙を突いて別所氏が姫路城に押し寄せたため、官兵衛は急ぎ姫路に引き返し、播磨国分寺に籠って別所氏を撃退したという。

 

 

以下、現地案内板より

 

深志野構居跡

 

 地元では「官兵衛の家老屋敷跡」と伝わる。「飾磨郡誌」には「播磨里翁説」として「深志野の構居は御着の枝城にして、領主は小寺孫四郎又小寺官兵衛といふ、三木の城主別所小三郎が官兵衛の館に押寄せけるといふは即ち此構居也、官兵衛は御着小寺の家臣にして一時は深志野の構居に居住すといへり、今この構居址の南に馬場の跡あり」とある。門前池の南は「門前」、その手前の思出川の南は「構居所」、さらにその南は「宿所」と呼ばれており一帯が武家屋敷に関わる特別の地域であったことがわかる。特に諏訪大明神の祠が残るところは、その裏の竹林に深濠や石垣が数カ所残っている。ここ浦山麓は御着城の北方にあたり、かつて敵対していた別所軍をここで撃退したという言い伝えも残っている。

 

 

妙見神社

 

 深志野北西部の妙見神社遺跡内に鎮座している妙見神社は、「西の宮」とも呼ばれている。
 創建時期等については不明だが、「播陽里翁説」によると、牛堂山先住のヨウクハンという僧が、但馬の妙見山(養父市八鹿町)の名草神社に祀られている妙見明神(北辰北斗を神とする)を勧請したとある。

 

平成25年12月 姫路市教育委員会