①北郭石垣
②東櫓からの眺望
③南の郭
④西櫓石垣
⑤狼煙台からの眺望
⑥遠望
翌天正12年(1584)元親に十河城と虎丸城を攻略され、勝ち目の無くなった存保は秀吉を頼って落ち延びた。
天正13年(1585)四国征伐における功により秀吉から十河城に2万石を与えられ大名に復帰した。
天正14年(1586)九州征伐で秀久の軍監のもと先鋒として元親らとともに島津氏との戸次川の戦いに挑むが敗れて討死した、34歳。この時、元親も嫡男・信親を失っている。
城の起源は遠く、天智天皇の6年(667)11月屋島築城のとき、阿倍比羅夫率いる引田氏によって築城されたものであるとも云われ、また、屋島城(軍団)との連絡のために出来た「狼火台」として造られたのが城のはじまりになったとも云われている。
この城が内海の要塞として代々の城主四宮氏・仙石氏・十河氏・生駒氏などにより改修が加えられ、近世の城として体裁を完備していったが、元和元年(1615)の一国一城令により廃城となり、今は山上に石垣・土塁そして空堀などを残すのみで、城郭としての規模はわからない。
しかし引田の住民はこの城を拠点として、事ある時は軍船を操り水軍の衆として大活躍をなし、平時にあたっては内海はもとより朝鮮・支那の遠海に運航し、特に永正年間大内氏と結び近くは堺・兵庫、遠くは台湾・呂宋まで渡航して貿易に従事し、引田港の全盛を招来した。
城趾区域 東西250m 南北500m 引田町教育委員会
西の郭・天主台・南の郭
ここは西櫓跡と言われている所で方形の石垣が残って居り、その上には展望台らしい構造物跡があるが、これは大正12年久邇宮良子殿下(昭和天皇皇后)行啓予定地の報により展望台道路の整備等をなし現状が一部変更されている。
ここから南東方、魚の神付近に天守台、更にその先に南櫓跡の石垣が残っているが、近年崩れ落ちた箇所も多い。またこの付近の石垣は、後年引田港一文字波止堤防用としてくずされ利用された。その堤防は眼下南方に現在する。天主台等の建造物については瓦片等から想像し、生駒時代の構築と考えられている。
引田町教育委員会