讃岐 引田城 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①北郭石垣

イメージ 2②東櫓からの眺望

イメージ 3③南の郭

イメージ 4④西櫓石垣

イメージ 5⑤狼煙台からの眺望

イメージ 6⑥遠望

 

訪問日:2010年8月

 

所在地:香川県東かがわ市

 

 小少将は固有名詞ではなく、朝倉義景の側室など歴史上そう呼ばれた女性は何人も存在する。その1人の岡本牧西の娘は阿波守護・細川持隆の側室となり、天文7年(1538)細川真之を産み、天文22年(1553)持隆が三好実休に殺害されると実休の継室となり、同年に三好長治、翌年に十河存保を産む。

 

 永禄5年(1562)実休が和泉で討死すると重臣篠原自遁の妻となった。さらには長宗我部元親の側室となり、天正11年(1583)右近大夫を産んだというが、どこまでが事実なのかは疑問。

 

 長治は父の死後家督を継ぎ阿波勝瑞城主となり、存保は叔父の十河一存の嫡子・重存(三好義継)が三好長慶の跡を継ぐことになったため、代って永禄6年(1563)頃十河氏の家督を継ぎ、ともに篠原長房・自遁兄弟らの補佐を受けた。

 

 元亀4年(1573)成人した長治と長房が対立し、存保は長治の命で香西氏や香川氏らの讃岐国人や阿波・淡路などの兵を率いて上桜城に籠る長房を攻め、これを討ち取った。

 

 しかし、長治は次第に讃岐国人の支持を失い、香西之景・香川佳清らが離反、長治は讃岐に兵を出すが、呼応した長宗我部元親が阿波に侵入したため阿波に撤退した。

 

 天正3年(1575)河内高屋城に籠った三好康長が織田信長に降伏して畿内での拠点を失い、天正4年(1576)には香西・香川が信長に臣従し、讃岐の支配権も完全に失った。

 

 さらに天正5年(1577)には長治が元親と結んだ異父兄・真之に敗れて自害、存保は家中から擁立され、翌年勝瑞城に入り、実質的に三好氏の当主となる。

 

 存保は阿波・讃岐国人の大半の糾合に成功し、天正8年(1580)には信長と元親の関係が悪化し、天正9年(1581)康長とともに信長援助を得て元親に反攻を開始した。

 

 しかし、天正10年(1582)本能寺の変で信長が討たれて形勢は逆転、同年、中富川の戦いで元親に敗れ、阿波と勝瑞城を放棄し讃岐虎丸城に撤退した。それでも体勢を立て直して阿波に再侵攻し、異父兄・細川真之を自害させる。

 

 天正11年(1583)存保は羽柴秀吉に援軍を要請したが柴田勝家との対峙で余力は少なかったが、仙石秀久に救援を命じた。

 

 秀久は存保の持城となっていた引田城に入り元親と戦う(賎ヶ岳の戦いと同日という)が敗れて四国から撤収し、翌日引田城は落城した。

 

 翌天正12年(1584)元親に十河城と虎丸城を攻略され、勝ち目の無くなった存保は秀吉を頼って落ち延びた。

 

 天正13年(1585)四国征伐における功により秀吉から十河城に2万石を与えられ大名に復帰した。

 

 天正14年(1586)九州征伐で秀久の軍監のもと先鋒として元親らとともに島津氏との戸次川の戦いに挑むが敗れて討死した、34歳。この時、元親も嫡男・信親を失っている。

 

 

以下、現地案内板より

 

引田城跡

 

 城の起源は遠く、天智天皇の6年(667)11月屋島築城のとき、阿倍比羅夫率いる引田氏によって築城されたものであるとも云われ、また、屋島城(軍団)との連絡のために出来た「狼火台」として造られたのが城のはじまりになったとも云われている。
 この城が内海の要塞として代々の城主四宮氏・仙石氏・十河氏・生駒氏などにより改修が加えられ、近世の城として体裁を完備していったが、元和元年(1615)の一国一城令により廃城となり、今は山上に石垣・土塁そして空堀などを残すのみで、城郭としての規模はわからない。
 しかし引田の住民はこの城を拠点として、事ある時は軍船を操り水軍の衆として大活躍をなし、平時にあたっては内海はもとより朝鮮・支那の遠海に運航し、特に永正年間大内氏と結び近くは堺・兵庫、遠くは台湾・呂宋まで渡航して貿易に従事し、引田港の全盛を招来した。

 

城趾区域  東西250m 南北500m  引田町教育委員会

 

 

西の郭・天主台・南の郭

 

 ここは西櫓跡と言われている所で方形の石垣が残って居り、その上には展望台らしい構造物跡があるが、これは大正12年久邇宮良子殿下(昭和天皇皇后)行啓予定地の報により展望台道路の整備等をなし現状が一部変更されている。
 ここから南東方、魚の神付近に天守台、更にその先に南櫓跡の石垣が残っているが、近年崩れ落ちた箇所も多い。またこの付近の石垣は、後年引田港一文字波止堤防用としてくずされ利用された。その堤防は眼下南方に現在する。天主台等の建造物については瓦片等から想像し、生駒時代の構築と考えられている。

 

引田町教育委員会