①光明寺
②常夜灯
③砦跡
訪問日:2013年5月
所在地:名古屋市緑区
山口教継・教吉父子が切腹させられ、鳴海城には今川氏譜代の岡部元信が入る。織田信長はこれに対抗して鳴海城の周囲に丹下砦・善照寺砦・中島砦を築いてこれを包囲した。
鳴海城は水野帯刀左衛門(忠光)や山口海老丞(守孝)・柘植玄蕃(友顕)が守った。水野帯刀左衛門は黒母衣衆の一人としてその名が記されている。
黒母衣衆と赤母衣衆は「信長記」によると永禄10年(1567)に制定された信長直属の使番で、それぞれ黒と赤に染め分けた母衣を背負っていた。
黒母衣衆のメンバーは山鹿素行の「武家事記」における黒幌衆とやや異なっており、
信長記(10名)
佐々内蔵助(佐々成政)・毛利新左衛門尉(毛利良勝)・河尻肥前守(河尻秀隆)・生駒勝介・水野帯刀左衛門・津田左馬允(津田盛月)・蜂屋兵庫頭(蜂屋頼隆)・中河八郎右衛門尉(中川重政)・中嶋主水正・松岡九郎次郎
武家事記(13名)
河尻與兵衛尉(河尻秀隆)・織田駿河守忠政(中川重政)・佐々内蔵助(佐々成政)・織田左馬允信重(津田盛月)・毛利新介(毛利良勝)・平手久右衛門尉(平井久右衛門)・伊藤武兵衛尉(伊東武兵衛)・水野帯刀左衛門尉・松岡九郎次郎・生駒庄之助・蜂屋兵庫頭(蜂屋頼隆)・野村三十郎(野々村正成)・中島主水正
となっている。水野帯刀左衛門は常滑水野氏の忠綱の子で、桶狭間の戦いの翌年の軽海の戦い以降その名が見られない。黒母衣衆が永禄10年に制定されたのであればそれまでは生存していたことになるが、その消息は不明である。
以下、現地案内板より
丹下町常夜灯
鳴海宿の西の入口丹下町に建てられた常夜灯である。
表に「秋葉大権現」右に「寛政四年‐‐」左に「新馬中」裏には「願主重因」と彫られている。
寛政4年(1792)、篤志家の寄進により設置されたものである。
旅人の目印や宿場内の人々及び伝馬の馬方衆の安全と火災厄除などを秋葉社に祈願した火防神として大切な存在であった。
平部の常夜灯と共に、鳴海宿の西端と東端の双方に残っているのは、旧宿場町として貴重である。
表に「秋葉大権現」右に「寛政四年‐‐」左に「新馬中」裏には「願主重因」と彫られている。
寛政4年(1792)、篤志家の寄進により設置されたものである。
旅人の目印や宿場内の人々及び伝馬の馬方衆の安全と火災厄除などを秋葉社に祈願した火防神として大切な存在であった。
平部の常夜灯と共に、鳴海宿の西端と東端の双方に残っているのは、旧宿場町として貴重である。
名古屋市教育委員会
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