武蔵 茅ヶ崎城 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①中郭内部

イメージ 2②東郭から中郭を望む

イメージ 3③東中郭間堀切•土橋

イメージ 4④東郭虎口

イメージ 5⑤中西郭間の堀切

イメージ 6⑥北郭内部

 

訪問日:2016年1月

 

所在地:横浜市都筑区

 

 茅ヶ崎といえば湘南の海岸を思い浮かべるが、茅ヶ崎城は茅ヶ崎市ではなく、横浜市都筑区の港北ニュータウン内にある。ちなみにこちらの住居表示は「茅ケ崎」が正しい。しかし、江戸時代までは都筑郡茅ヶ崎村であった。

 

 茅ヶ崎城は北条氏の築城といわれるが、その前は上杉氏も関わっていた可能性もあろう。永禄2年(1559)の北条氏康の小田原衆所領役帳では茅ヶ崎あたりは小机衆に属する座間豊後(新左衛門)の所領であった。

 

 永禄7年(1564)北条氏が里見氏と戦った第二次国府台合戦において座間某が鉄砲傷を負い、池辺村に土着したとの記録もあり、新左衛門の一族と思われる。

 

 天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原征伐により、小机城・茅ヶ崎城は戦うことなく豊臣軍の手に落ちた。座間氏は武士を捨てて帰農したと思われる。

 

 

以下、現地案内板より

 

 茅ヶ崎城址は、「空堀」「郭」「土塁」などが良好な状態で残る、貴重な中世城郭遺跡です。早渕川を北に望む自然の丘を利用して築城されています。
 茅ヶ崎城は14世紀末~15世紀前半に築城されたと推定され、15世紀後半に最も大きな構えとなります。16世紀中ごろには二重土塁とその間に空堀が設けられました(この築城方法は、後北条氏独特のものとされる)。築城には、それぞれの時期に相模・南武蔵を支配した上杉氏(室町時代)や後北条氏(戦国時代)が関与していたと推定されます。
 16世紀末までには、城としての役割は終わります。江戸時代には、徳川氏の領地となり、村の入会地(共有地)などとして利用され、「城山」という地名とともに、今日まで保存されてきたのです。茅ヶ崎城址は、貴重な歴史資産なのです。

 

城の立地と歴史的環境

 

 茅ヶ崎城は、早渕川中流右岸の三角山(現:センター南駅付近の旧地形)から東に連なる丘陵の先端部に築かれた丘城です。標高は28~35メートルあり、最高所は中郭南西隅の土塁上で、およそ40メートルあります。
 当地域は、武蔵国南部にあたり、関東の政治の中心地である鎌倉に隣接しています。茅ヶ崎城の近くには、関東各地と鎌倉を結ぶ鎌倉道のうち「中の道」が通っていたと考えられており、東側には後の中原街道、西側には矢倉沢街道(大山道)が通じています。また、早渕川沿いの道は神奈川湊(横浜氏神奈川区)と武蔵国府(東京都府中市)を結ぶルートのひとつでした。茅ヶ崎城は、このような交通の要衝の地に自然の地形を巧みに利用して築かれていたのです。

 

茅ヶ崎城をとりまく歴史的背景

 

 1338年、足利尊氏が京都に室町幕府を開くと、鎌倉には関東の統治機関として鎌倉府が置かれ、「鎌倉公方」足利氏と、その補佐役の「関東管領」上杉氏が力を持ちます。
 15世紀半ばになると、鎌倉公方と上杉氏の対立、また、上杉氏一族の内紛が激しくなり、関東を中心に大規模な戦乱が起こります。1476年の上杉氏家臣長尾景春の乱では、小机城が太田道灌に攻め落とされます。
 15世紀終わり頃、伊勢新九郎長氏(北条早雲)は関東支配を進め、1495年の小田原城の奪取をはじめとして、関東各地に支城を中心とした領国をつくっていきました。このころ茅ヶ崎城は、周辺の城とともに小机城を中心とする後北条氏の勢力下に組み込まれていたと考えられています。茅ヶ崎城の最高所に高さ8メートルほどの櫓を設置すれば、およそ3.5キロメートル離れた小机城を望むことができたようです。
 1590年には、豊臣秀吉の軍勢がこの地に押し寄せます。この時、茅ヶ崎城を含む11ヶ村に対して軍勢による略奪や放火を禁止した豊臣秀吉の禁制が発布されています。その後、徳川家康による江戸幕府の開府を経て、1615年に一国一城令が出されると、多くの城は廃城となりました。

 

茅ヶ崎城の移り変わり

 

 茅ヶ崎城は早渕川に張り出す自然の丘のくびれ部を堀切して築かれています。規模は、東西330メートル、南北200メートル、総面積はおよそ55,000㎡あります。複数の郭が連なる形式で、郭を取り巻く空堀、郭の外縁部に築かれる土塁などで構成されています。天守閣のような大きな建物や石垣はありませんでした。
 発掘調査の結果、築城年代は14世紀末~15世紀前半頃と考えられ、少なくとも2度にわたる大規模な改築のあとが認められました。
 築城当初は、東西2つの郭のみでしたが、15世紀後半頃には、土塁の改築と空堀の掘り直しが行われ、郭が西郭・中郭・東郭・北郭の4つになったと考えられています。中郭(当初の西側郭)の南東部から、倉庫と考えられる建物などが見つかっています。この時期に相模国と武蔵国を支配していたのは関東管領上杉氏であり、茅ヶ崎城の改築にも影響を与えていたと推定されています。
 16世紀中頃には、二重土塁の間に空堀をめぐらせるなど、後北条氏独特の築城方法による防備の強化がなされています。中郭の東寄りには新たに「中堀」も掘られています。この堀の脇に土塁が見られない点から、防備の強化は未完成のままであった可能性もあります。この頃の城主については、後北条氏の家臣団で小机衆のうちの座間氏や深沢備後守という説があります。
 茅ヶ崎城の南側の谷に望む山すそから、かつては14・15世紀のものと考えられる常滑産の蔵骨器や板碑が発見されています。墓地に伴うこれらの出土品は、「根小屋」とよばれる平時の生活拠点エリアが形成されていた可能性があることを物語っています。
 中世城郭は、軍事拠点としてだけではなく、戦時における地域の避難施設でもありました。
 城内には、籠城の備えとしての食べ物を貯え、井戸を掘ることが行われました。また食料になるように植物も植えられ、管理されていたと考えられます。

 

発掘調査のあらまし

 

●平成2年度~平成10年度
 保存・活用をはかる基礎資料を得るため、城内全域を対象とする7次にわたる試掘調査を実施。
●平成15年度・平成17年度
 公園の整備事業に伴い、北郭の一郭と中郭南東側土塁の一部の発掘を実施。
 これらの調査により、堀や土塁・土橋の様子が明らかにされ、中郭東部の建物跡・北郭の井戸などが発見されました。この他、弥生時代後期・古墳時代後期・平安時代の竪穴住居あとなど、より古い時代の遺構も見つかりました。
 出土品には、それらの時代の土器のかけらや、縄文土器のかけらもみられます。茅ヶ崎城に関係する出土品には、かわらけ・陶磁器をはじめ、石臼・硯などのかけらや鉄釘・銭などがあります。