陸奥 宮崎城(宮崎所) | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①遠景

イメージ 2②標柱と案内板

 

訪問日:1998年11月

 

所在地:宮城県加美郡加美町(旧加美郡宮崎町)

 

 国分盛重の末子・古内重広の岩沼古内氏の分家に、重広の養父・実綱の次男・義実が興した宮崎古内氏がある。家格は本家と同格の着坐であった。

 

 義実の子・古内義如(志摩)は仙台藩奉行に昇進し、寛文11年(1671)伊達騒動の刃傷事件の現場・酒井忠清邸に居合わせていたが、運良く難を免れて取り調べの後、仙台に無事帰国している。

 

 義実はその2年後に病没し、義弟で松前安広(仙台藩準一家・松前藩主・慶広の7男)の4男・義憲が養嗣子となり、義長(養子)義清と続き、義清は江刺郡上口内から加美郡宮崎に所替えとなり、以降明治維新まで3,283石を領した。

 

 

古戦場 宮崎城(古城)

 

 この城は、典型的な中世の山城で、大崎氏時代には三大名城の一つといわれ、自然の要害の地であった。天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐後の奥州仕置きで大崎氏の領地は没収され秀吉の臣木村氏に与えられた。木村氏の政策に対する不満が一揆の蜂起につながり、天正19年(1591)旧城主笠原民部を大将に笠原等3千人余りが立てこもり、伊達政宗の軍勢1万人余りと戦った。旧暦6月24日、25日と2日間の激戦の末、落城した。この戦いで笠原民部は一子隆元と数人の家来に守られて、出羽(山形)に逃れた。
 伊達軍は智将といわれた浜田伊豆(墓は桧葉野にあり)を始め20名程の武将が戦死したほか、足軽百人余りが討死した。落城の時捕虜となった2百人余りは、翌26日、城の北側の流れの沢で斬首されたと伝えられている。

 

平成6年9月1日 宮崎町教育委員会