陸奥 黒崎台場 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①砲台

イメージ 2②黒崎

イメージ 3③黒崎

イメージ 4④黒崎

イメージ 5⑤黒埼灯台

 

訪問日:1999年5月

 

所在地:岩手県下閉伊郡普代村

 

 弘化4年(1847)三閉伊一揆により隠居した父・利済に替わり盛岡藩13代藩主となった利義はかねてより徳川斉昭ら内外からの評価も高く、砲術に関する著作もある人だったが、嘉永2年(1849)父と対立してわずか2年で弟・利剛に家督を譲り、江戸屋敷に隠居させられた。

 

 嘉永6年(1853)院政を布く利済が一揆との公約を破棄したことにより一揆が再起し、藩境を越えて仙台藩に強訴した。その要求は三閉伊の幕領化あるいは仙台領化と利義の復位であった。

 

 結果、利義の復帰は叶わなかったが、盛岡藩はそれ以外の39ヶ条の要求を受け入れ、指導者を処分することもなく一揆は成功した。幕府は利済に江戸での謹慎を命じた。

 

 これにより利剛の親政となり、仙台藩との交渉を取り纏めた家老である母方の従弟・楢山佐渡(隆吉)が実権を握り、改革急進派の家老・東政図を失脚させた。

 

 慶応4年(1868)鳥羽・伏見の戦い直後に京都に赴任した佐渡は西郷隆盛ら新政府側の人物と接触するが、その思想に疑問を覚え、帰国後藩内の反対派を押し切り、盛岡藩は奥羽越列藩同盟に参加した。

 

 新政府に降伏後、利剛は隠居差控を銘じられ、盛岡藩20万石は没収され、嫡子の南部利恭が家督相続を赦され、白石13万石に減転封となった。

 

 翌明治2年(1869)佐渡は責を負って盛岡で斬首された。一方で重臣や領民らによる盛岡復帰運動が実を結び、上納金70万両の献納を条件に同年、利恭は盛岡藩知事を拝命し13万石を管轄した。

 

 

以下、現地案内板より

 

黒崎御台場(砲台場)跡

 

 ここ黒崎は正保2年(1645)のころは小本村に属し黒崎といい、沿岸警備の船遠見番所が南部藩によって設けられ、そののち元禄12年(1699)には普代村に属し、普代崎と称するようになった。
 のちに南部藩ではこの場所に台場(海岸の砲台場)を築き、黒崎御台場と称した。
 幕末の南部家文書「御分国海辺全図」によると、領内の大平洋沿岸沿いと津軽海峡、そして内海陸奥湾側に至る広い沿岸要所に遠見番所10ヶ所以上と砲台場33ヶ所以上を配置したとしている。
 この御台場には土塁をめぐらし、砲台場、火薬庫、詰め所を配置して打ち方と手伝人6名を常置させていた。
 明治元年(1868)の戊辰戦争では、幕軍に属していた南部藩は北航してくる官軍艦船をこの場所から狙い打ちにしていたという。(普代村史より転載)

 

平成2年3月  普代村長  岩澤義男