陸奥 霊山城 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①霊山

イメージ 2②霊山

イメージ 3③霊山

 

訪問日:1998年9月

 

所在地:福島県伊達市(旧伊達郡霊山町)

 

北畠顕家(文保2年-延元3年/建武5年・1318~1338)

 

文保2年(1318)1歳
 北畠親房の長男として誕生

 

元応3年(1321)4歳
 従五位下に叙位

 

元徳3年(1331)14歳
 史上最年少で参議に任ぜられ、左近衛中将を兼任、従三位に昇叙

 

元弘3年/正慶2年(1333)16歳
 鎌倉幕府滅亡後、正三位陸奥守右近衛中将として義良親王(後の後村上天皇)を奉じて父とともに陸奥へ下向し、多賀城に入る

 

建武元年(1334)17歳
 北条氏残党が拠る津軽を平定し、功により従二位に昇叙

 

建武2年(1335)18歳
 鎮守府将軍に就任、足利尊氏は斯波家長を奥州管領としてこれを牽制、11月朝廷が尊氏追討を宣し、新田義貞を鎌倉に派遣するが、12月義貞は敗れて尊氏の追撃を受け、顕家は尊氏を追って奥州軍5万を率い上京を開始

 

建武3年(1336)19歳
 正月2日、足利義詮らを破り鎌倉を占拠、さらに西へと進撃し、6日に遠江に、12日には近江愛知川に到着、この間40km弱/日と後の羽柴秀吉の中国大返しを上回るスピードで進軍、13日には琵琶湖を渡り坂本で新田義貞・楠木正成らに合流、16日義貞とともに園城寺を攻め細川定禅を破る、その後も高師直らと戦いが続き、27~30日に義貞・正成らとともに尊氏を破り京都から退去させる
 2月5日、右衛門督検非違使別当・鎮守府大将軍として義貞とともに尊氏・直義追討軍を率い出陣、再入京を目指す尊氏を11日摂津豊島河原合戦で破り、転戦の後14日京都に凱旋
 3月、権中納言に任官し、足利方掃討のため奥州へ戻る、途中斯波家長や相馬氏を破り、5月に奥州へ帰還、5月25日畿内では湊川の戦いで正成が討死、後醍醐天皇は義貞らとともに比叡山へ逃れる、以降も顕家は関東などで戦いの日々が続く

 

延元2年/建武4年(1337)20歳
 父から伊勢へ救援の依頼を受け、正月8日国府を霊山城に移す、同時に天皇からも京都奪還の綸旨が届き、25日霊山城を囲まれておりすぐに上洛できないと返答、8月11日に10万余騎を集め義良親王を奉じ霊山城を出陣、19日には白河関を越え下野に入る
 12月8日足利方小山城を攻略し、小山朝郷を捕える、13日利根川、16日安保原の戦いでいずれも勝利し、23日鎌倉を攻撃、24日攻略、足利義詮らは鎌倉を脱出、斯波家長は討死した、新田義興や北条時行が顕家軍に合流し、さらなる大軍に膨れ上がる

 

延元3年/暦応元年(1338)21歳
 正月2日、鎌倉を出陣、12日遠江橋本、21日尾張に入り翌日同国黒田宿に到着、29日までに美濃青野原の戦いで土岐頼遠らの足利方に大勝、しかし兵力の減少・疲弊のため京都攻略は諦め、2月には伊勢に後退した
 2月14・16日、顕家討伐軍の高師泰らと伊勢雲出川・櫛田川で戦うが勝敗はつかず、21日顕家は大和を占領するが、28日般若坂の戦いで桃井直常に敗れ、義良親王を吉野に送る
河内に退いた顕家は伊達氏・田村氏らとともに戦力を整え3月8日天王寺の戦いで勝利、13日は天王寺・阿倍野・河内交野で戦い、14日天王寺で敗れる、15日は渡辺の戦いで勝利、16日は阿倍野で敗れ和泉国に転戦、21日高師直はこれを追撃した
 3月22日、南朝は顕家を正二位権大納言に叙任、同時に九州の阿蘇惟時に顕家救援を命じるが惟時は動かなかった、4月27日にも救援命令を出した
 5月6日、顕家は和泉堺浦の町屋を焼き、8日和泉坂本・観音寺に城を築き、9日熊取・佐野・長滝を進撃して足利方と戦う
 5月10日には後醍醐天皇へ東国経営の上奏文、15日にも天皇の新政を批判する「顕家諫奏文」を上奏する
 5月16日、高師直が天王寺から堺浦へ出撃、22日顕家軍と激突する、長征の疲労に加え瀬戸内海水軍が足利方についたため、顕家は苦境に立たされ、最期は兵200で決死の戦いを挑むが、石津で討ち取られる、名和義高・南部師行らが顕家に殉じた

 

(顕家の死後)
 6月21日、顕家の妻・萩の局(日野資朝の娘)は河内観心寺に入り尼となってその菩提を弔った
 7月2日には新田義貞が越前で討死し南朝は大打撃を受ける
 7月26日、顕家の次弟・北畠顕信が鎮守府将軍に、三弟・顕能が伊勢国司に任命され、9月親房・顕信父子は義良親王を奉じ陸奥へ向かうが、暴風雨により親房は常陸に、顕信・義良親王は伊勢に戻った、翌年、顕信は再び陸奥へ向かい霊山城に入って活動するが、正平2年/貞和3年(1347)落城

 

 顕家は南朝より従一位右大臣を追贈される、顕家の嫡男・顕成は南朝で内大臣まで昇進したようだが、懐良親王に従い九州に赴いたとか、陸奥に下って浪岡北畠氏の祖となったなど、その事跡は諸説あり明確ではない