山城 男山城(石清水八幡宮) | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①上院社殿

イメージ 2②楼門

イメージ 3③南総門

イメージ 4④上院参道石燈籠群

イメージ 5⑤参道の石垣

イメージ 6⑥頓宮の庭園

 

訪問日:2011年1月

 

所在地:京都府八幡市

 

 将軍・足利尊氏の弟で専ら政務を担当した足利直義と足利家の執事・高師直の対立は観応元年(正平5・1350)武力衝突に発展し、観応の擾乱となる。

 

 南朝方の武士たちが直義の養子・直冬(尊氏の庶子)を立てて挙兵、尊氏が自らこれを追討のため出陣、直義は京都を出奔し、畠山氏・細川氏・山名氏らを味方にして挙兵した。

 

 尊氏は軍を返して師直と合流し、北朝の光厳上皇に直義追討令を出させると、直義は宿敵のはずの南朝に降伏して対抗した。

 

 翌観応2年(正平6・1351)直義は京都に進撃し、尊氏の留守を守る嫡男・義詮を追い、畿内に引き返してきた尊氏を播磨光明寺合戦・摂津打出浜の戦いで撃破する。

 

 尊氏は直義との和睦を図り、その結果師直一族は殺害され、直冬は九州探題に任じられたが、尊氏・直義の対立構造は解消せず、立場が悪化した直義は京都を出奔し、鎌倉に下った。

 

 しかし関東や北陸・山陰は直義が抑え、九州は直冬が勢力を伸ばす状況の中で、尊氏は直義と南朝の分断を図り、南朝に降伏して直義・直冬追討の綸旨を得た。

 

 これにより年号は南朝の正平に統一され(正平一統)北朝の崇光天皇は廃され、三種の神器も南朝に引き渡された。足利氏の北朝を無視した南朝への政権の無条件奉還ともいえる事態となる。

 

 尊氏は直義追討の兵を挙げ、駿河薩埵峠や相模早川尻の戦いで直義を破り、翌正平7年(1352)鎌倉に追い込み降伏させた。そして師直の1周忌にあたる2月26日直義は急死する。

 

 勢いに乗る南朝は京都・鎌倉の足利勢力の一掃を図り、尊氏の征夷大将軍職を解任し、宗良親王に替えた。その上で新田義興・北条時行らが親王を奉じて一時的に鎌倉を制したが、尊氏がすぐにこれを奪回した。

 

 一方京都では、北畠親房が北畠顕能・楠木正儀・千種顕経らを率い、義詮を近江に追って京都に入り、光厳・光明・崇光の3上皇と皇太子・直仁親王を拉致、後村上天皇の行在所・石清水八幡に幽閉した。

 

 しかし体制を整えた義詮はすぐに京都を奪還し、石清水八幡を包囲した。2ヶ月の包囲の末、後村上天皇は脱出して石清水八幡は陥落した。

 

 尊氏・義詮は観応の年号復活を宣言、しかし北朝の3上皇と廃太子は南朝の本拠・賀名生、のち河内金剛寺に移されて幽閉され、三種の神器も南朝の手に渡っており、政権の正統性は脆弱なものであった。

 

 北朝は神器がないまま崇光天皇の弟・弥仁親王を即位させ、観応から文和元年と改元した。足利義満による南北朝合一の40年前のことである。
 
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