伊豆 蛭ケ島 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①蛭ヶ小島碑③

イメージ 2②蛭ヶ島の夫婦像

イメージ 3③旧上野家住宅

イメージ 4④旧上野家住宅

 

訪問日:2015年11月

 

所在地:静岡県伊豆の国市

 

 平治元年12月27日(1160年1月19日)平治の乱に敗れた源義朝ら一門は官職を剥奪され、京を落ち東国を目指した。途中、義朝の次男・朝長(17歳)が落武者狩りに遭い負傷したのがもとで12月29日に亡くなった。

 

 そして頭領の義朝は翌平治2年1月3日(1160年2月11日)尾張の家人・長田忠致の屋敷で入浴中に長田に襲われて殺害された。享年38。

 

 義朝と分かれて東山道から東国を目指した長男・義平は、義朝の死を知り、京に戻り平清盛の命を狙ったとされるが(平治物語)、捕えられて年号の変った永暦元年1月25日(1160年3月4日)六条河原で処刑された。享年20。

 

 そして3男の頼朝(14歳)は義朝からはぐれ、平家に捕えられて同年2月9日六波羅に送られたが、死一等を減ぜられ伊豆に流刑となり、3月11日伊豆の蛭島(吾妻鏡)に流された。

 

 現在の蛭ケ島公園の地は江戸時代の学者がこの付近にあったと推定して寛政2年(1790)に碑を建てた場所で、ここが本当に頼朝が流された場所かどうかは確定していない。

 

 ここで頼朝は伊豆の豪族・北条時政の娘・政子と結婚、治承2年(1178)長女・大姫が生まれる。頼朝はすでに32歳、政子は20歳のことであった。

 

 そして治承4年(1180)頼朝はついに平家打倒の挙兵を決意する。

 

 

以下、現地案内板より

 

蛭ヶ島(源頼朝配流の地跡)

 

 このあたりを、韮山町四日町字蛭ヶ島といい、平治の乱で敗れた源義朝の嫡子、兵衛佐頼朝配流の地といわれている。
 狩野川の流路変遷の名残をとどめてか、近在には古河・和田島・土手和田等の地名が現存するところから、往時は大小の田島(中州)が点在し、そのひとつが、この蛭ヶ島であったことが想像される。
 永暦元年(1160)14歳でこの地に流された頼朝は、治承4年(1180)34才で旗挙げ、やがては鎌倉幕府創設を成し遂げることになるが、配流20年間における住居跡等の細部は詳らかでない。しかし、「吾妻鏡」治承4年の記事によれば、山木攻め(頼朝旗挙げ)の頃は、妻政子の父、北条時政の館(当地より西方約1.5kmの守山北麓)に居住し館内で挙兵準備を整えたとある。このことから考えると、頼朝は、北条政子と結ばれる治承元年(1177)頃までの約17年間を、ここ蛭ヶ島で過したものといえよう。
 当公園中央部にある「蛭島碑記」の由緒は、源氏が天下支配の大業を果たした歴史の原点を後世に伝承すべく、寛政2年(1790)豆州志稿の著者、秋山富南の撰文により、江川家家臣飯田忠晶が建立したもので、韮山町の有形文化財に指定されている。また、この碑の西側にある高い碑は、秋山富南の頌徳碑で、豆州志稿の増訂に当った荻原正夫が、明治26年に建立したものである。

 

伊豆の国市

 

 

静岡県指定有形文化財 旧上野家住宅
伊豆の国市 歴史民俗資料館

 

 この民家は、旧韮山町土手和田地区に江戸初期から続く上野家の住宅で、記録こそないが18世紀中頃以前に建造されたものと推定される。
 軒が低く、土間が広く、暗い内部は架構も単純で、中央通りに建つ二本の太い柱は棟持柱となって上までのびている。この形式は重要文化財、江川家住宅の四天柱の構造と同じもので現存する庶民農家の住宅としては、県下にも例の少ない古い型式である。
 昭和50年1月、所有者上野唯雄氏から韮山町へ寄贈された。その後昭和52年12月20日、静岡県の有形文化財(建造物)に指定されたことを契機に、町は国庫及び県費の補助をうけ、韮山町歴史民俗資料館として昭和54年3月30日解体、移築復元したものである。

 

平成17年4月1日
文化庁 静岡県教育委員会 伊豆の国市教育委員会