伊豆 韮山代官所(江川邸) | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①表門と桝形

イメージ 2②主屋玄関

イメージ 3③主屋

イメージ 4④西蔵

イメージ 5⑤武器庫

イメージ 6⑥裏門

 

訪問日:2015年11月

 

所在地:静岡県伊豆の国市

 

 江川氏は大和源氏・源頼親を祖とし、はじめ宇野氏を名乗った。源頼朝の挙兵に従って江川荘を安堵され、江川氏と改めた。

 

 天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐において28代・江川英長は北条氏を裏切って徳川家康に従い、以降、一時期を除いて相模・伊豆・駿河・甲斐・武蔵の代官として明治維新を迎えた。

 

 江川氏の当主は代々太郎左衛門を名乗ったが、中でも有名なのは、36代・英龍(坦庵)で、天保6年(1835)35歳で父・英毅の跡を継いで韮山代官となった。

 

 それまで江戸で学んだ神道無念流道場撃剣館の同門であった3歳年長の斎藤弥九郎を江戸詰所役として起用した。弥九郎は文政9年(1826)幕末江戸三大道場のひとつである練兵館を設立、英龍が資金援助をしたこの練兵館は桂小五郎・高杉晋作・井上聞多・伊藤俊輔といった長州藩士らを輩出している。

 

 天保8年(1837)モリソン号事件をきっかけに海防問題に危機意識を抱いた英龍は、天保9年(1838)末、老中・水野忠邦から江戸湾巡視の副使を命じられ(正使は鳥居耀蔵)、渡辺崋山らの助言を得て、翌年3月に任務を終えている。

 

 また、長崎に赴いて高島秋帆に弟子入りして近代砲術を学び、幕府にこれを取り入れさせた。その後、さらにこれを改良した西洋砲術の普及に努め、佐久間象山・大鳥圭介・橋本左内・桂小五郎らがこれを学んだ。

 

 天保13年(1842)には国防上の観点からパンに着目して韮山の邸内にパン窯を造り、4月12日に初めてパンを焼かせた。保存性の良い乾パンのようなものだったが、英龍は現在もパン祖と呼ばれている。

 

 嘉永2年(1849)には江戸の自邸に小型の反射炉(実験炉)を試作した。

 

 嘉永6年(1853)ペリー来航を契機に老中・阿部正弘に命じられて、かつて巡視した江戸湾に品川台場の築造を開始した。翌年のペリーの2度目の来航までに一部は完成し、ペリーは品川沖から引き返して浦賀に入港した。

 

 また安政元年(1854)には幕府直営の韮山反射炉の築造を開始した。当初は下田で基礎工事が始められたが、ペリーの水兵が敷地内に侵入するという事件が起きて韮山に変更された。しかし、英龍はその完成を見ることなく安政2年(1855)勘定奉行就任を目前に55歳で病死した。

 

 

以下、現地案内板より

 

重要文化財江川家住宅

 

 江川氏の遠祖宇野氏は大和の国に住む源氏の武士であったが、保元の乱(1156)に参戦して敗れ、従者十三人と共に逃れて居を定めたと伝えられる。現存の家屋の主屋は室町時代(1336-1573)頃に建てられた部分と、江戸時代初期頃(1600年前後)に修築された部分とが含まれている。この主屋は昭和33年(1958)に国の重要文化財の指定を受けた。同35年より文化庁、静岡県及び韮山町の協力を得て解体修理が行われ、文化14年(1817)に行われた大修理以前の古い形に復元された。またその際に茅葺きだった主屋の屋根は現状の銅板葺きとなった。
 江川氏は徳川時代初期より幕末に至るまで代々徳川幕府の世襲代官を勤めた。その中で幕末の江川英龍は体制側にありながら革新思想を持ち、農兵の組織、大砲の鋳造、品川台場築造の計画等をすすめたことで知られている。昭和42年に財団法人江川文庫が設立され、重要文化財および代官所記録の維持管理にあたっている。
 江川家住宅及びその周辺の重要文化財は次のとおりである。

 

  江川家住宅宅地   11,837㎡
  同    主屋    552㎡
  同    付属建屋、書院、仏間、土蔵等