摂津 鴫野砦 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①八劔神社

イメージ 2②八劔神社

 

訪問日:2012年6月

 

所在地:大阪市城東区

 

 大坂冬の陣は慶長19年(1614)11月19日、徳島藩主・蜂須賀至鎮(29歳)が大坂城から海に至る要衝である木津川口砦を抜け駆けにより攻略したことから始まった。

 

 続いて徳川家康は大坂城の北東、大和川(当時)の北岸に位置する今福村に付城を築くため、豊臣方が守備する今福砦とその対岸(南岸)の鴫野砦の攻略を命じた。

 

 鴫野砦は三重に柵を設けた砦で、井上頼次が兵2千で守備していたが、11月26日、上杉景勝(59歳)の精鋭5千が攻めかかり、頼次は討死して砦は占拠された。

 

 豊臣方は大野治長・竹田永翁・渡辺糺ら1万2千が後詰に駆けつけて反撃に転じたが、上杉勢に撃退された。家康は景勝に堀尾忠晴(16歳)と交替して兵を休ませるよう指示したが、景勝は身を粉にして奪った砦を上意とはいえ他人には任せられないとしてこれを拒否した。

 

 討死した井上頼次は美濃斎藤氏一門の長井道利の次男で、父・道利は永禄10年(1565)織田信長の美濃攻略により主君・斎藤龍興とともに伊勢に逃れ、長島一向一揆に加わり、最期は元亀2年(1571)将軍・足利義昭の家臣として摂津白井河原の戦いに茨木重朝に味方して討死したという。(異説あり)

 

 頼次は兄(父とも)・道勝、弟・時利とともに姓を井上と改め、信長、のち羽柴秀吉に仕えた。道勝は弘治2年(1556)長良川の戦いで斎藤道三に最初に組み付いた人だがその最期は不明、時利は頼次とともに大坂の陣に豊臣方についたが、夏の陣の道明寺の戦いで討死した。時利の享年が50とされているので、頼次も50歳を超えていたと推定できる。

 

 鴫野砦は八劔神社とその西隣りの城東小学校のあたりにあったと思われる。小学校の校門に記念碑と古戦場の案内板があったらしいが見逃してしまった。