美濃 苗木城 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①天守台

イメージ 2②馬洗岩

イメージ 3③本丸石垣

イメージ 4④本丸からの景観

イメージ 5⑤大門跡

イメージ 6⑥大矢倉跡

 

訪問日:2010年4月

 

所在地:岐阜県中津川市

 

 遠山直廉は美濃遠山氏本家の岩村城主・遠山景前の子で、天文21年(1552)に断絶した苗木遠山氏の養子となった。尾張清洲城の織田信秀は妹(おつやの方)を兄の景任に、娘(名前不詳)を直廉に嫁がせ友好関係を結んでいる。

 

 遠山氏は弘治元年(1555)東美濃に侵攻した武田晴信(信玄)に服属した。翌弘治2年(1556)景前が病死し、一族の中で本家の後継者争いが勃発したが、晴信が武力介入して景任が相続した。

 

 一方で遠山氏は信秀の跡を継いだ信長とも友好関係を継続し、永禄3年(1560)直廉は桶狭間の戦いに参加している。今川義元の死後、信玄は今川氏を切って信長との友好へとシフトする。

 

 甲陽軍鑑によると、永禄8年(1565)信長にとっては姪にあたる12歳の直廉の娘を養女として武田信玄の庶子・諏訪勝頼に嫁がせ、2年後に男児(後の武田信勝)を産むが難産のために亡くなった。直後に信長の嫡男・信忠と信玄の5女・松姫の婚約が成立したが、後に両家は手切れとなり、破談になった。

 

 直廉は永禄12年(1569)信玄の駿河侵攻に参陣、そして元亀3年(1572)信玄の命による飛騨姉小路氏との戦いにおける戦傷により苗木城で亡くなった。

 

 直廉に世嗣ぎはなく、信長の裁定で信長の姪を妻としている分家・飯羽間遠山氏の友忠が相続した。(間に友忠の父・友勝が入っている可能性も高い)飯羽間城には長男・友信が、支城の阿寺城には次男・友重が入った。

 

 同年、岩村城の景任も病死すると信長は5男の御坊丸を送り込み、おつやの方が後見人として女城主と呼ばれた。しかし同年、信玄が信長包囲網に呼応して西上作戦を開始すると、圧迫されたおつやの方は武田氏に寝返ってしまう。

 

 友忠はこれに反発して明知遠山氏や奥平氏らと結んで上村合戦となるが、明知遠山氏の景行が討死するなどして敗れている。

 

 天正元年(1573)信玄が亡くなったという情報を知った信長は岩村城奪回を図るが失敗、天正2年(1574)逆に勝頼が東美濃に侵攻し、友信がこれに内応して飯羽間城が落ち、阿寺城の友重、明知城の友治(景行の子)は落城して討死した。しかし苗木城の友忠は武田の猛攻に耐え、勝頼は遠江に転戦していった。

 

 天正3年(1575)長篠の戦いに勝利した信長は嫡男・信忠を大将として岩村城を奪還し、城主の秋山虎繁とその妻となっていたおつやの方を処刑した。この時、遠山一族は織田方と武田方に分かれて戦い、織田方にあった苗木遠山氏と明知遠山氏が命脈を保った。岩村城は信長家臣・河尻秀隆が城主となる。

 

 天正10年(1582)甲州征伐で戦功を挙げて3男・友政とともに信長の感状を受ける一方、かつて武田に内応した友信は捕らえられ、処刑された。岩村城は甲斐に転封となった秀隆に代わり信濃海津城主となった森長可の弟・成利(蘭丸)の金山城の支城となった。

 

 同年、本能寺の変が勃発すると、友忠は本家のあった岩村城奪還を狙い、木曾福島城主・木曾義昌と組んで信濃から金山城帰還途上の長可暗殺を企てるが、長可に義昌の嫡子(後の義利)を人質に取られて失敗する。

 

 天正11年(1583)金山城主に復帰した長可の降誘を拒絶し、徳川家康の支援を受けて長可と戦うが敗れ、友忠・友政父子は苗木城を脱出して家康を頼り、浜松へ落ちた。

 

 やがて友忠は亡くなり、友政は家康の関東移封に従って上野に移住していた。そして慶長5年(1600)関ヶ原の戦いを前に家康の命により、勝手知った苗木城を攻略(城主・河尻秀長は伏見城の戦いで不在)、そのまま苗木城1万石を与えられ、明治まで遠山氏が領した。

 

 明知遠山氏の利景も同様の経緯で旧領に復帰し、6千5百石の旗本として明治まで存続し、その分家から「遠山の金さん」のモデル遠山景元を輩出している。(途中血縁は途絶えている)

 

 

以下、現地案内板より

 

苗木城天守建物

 

 苗木城の天守は二つの巨岩のまたがる形で作られ、三層となっていました。
 1階部分の名称は「天守縁下」、板縁を入れて4m×5m(2間×2間半)の広さで、岩の南西側隅にありました。
 2階は「玉蔵」と呼ばれ、岩が敷地を占め、建物の床面自体の大きさは6m×6m(三間四方)でした。ここには1階と3階に通じる階段が設けられていました。
 3階の「天守」は巨岩の上にあり、9m×11m(4間半×5間半)の大きさでした。
 この巨岩の上の柱と梁組みは、苗木城天守3階部分の床面を復元(想定)したもので、岩の柱穴は既存のものを利用いたしました。
 苗木城天守3階部分を一部復元し、展望台として利用できます。