摂津 高浜台場(高浜砲台) | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①砲台跡碑

イメージ 2②砲台跡碑

イメージ 3③楠葉台場男山を望ム

 
訪問日:2015年10月

 

所在地:大阪府三島郡島本町

 

 桜井駅跡から南東に国道171号線を越えて1km余り走った淀川堤防の脇に高浜砲台跡碑が建てられている。台場跡は河川敷ゴルフ場として利用されていたが、現在はそれも無くなり、写真③のような景色になっている。

 

 嘉永7年(1854)ロシアのプチャーチンが大阪湾に現れたということもあり、文久3年(1863)京都守護職の松平容保は外国船が淀川を溯り京都に攻め入るようなことが無いようにと淀川の両岸に台場を築くよう建白し、勝海舟が奉行となって左岸に楠葉台場を、右岸に高浜台場とその奥に梶原台場を築造し、慶応元年(1865)に楠葉台場が、翌年に高浜・梶原台場が完成した。

 

 台場築造の真の目的は長州藩などの反幕府勢力を京都に入れないためのもので、梶原台場は西国街道の関所を、高浜台場は川を監視する舟番所を、楠葉台場は京街道の関所と舟番所両方の機能を兼ね備えたものであった。しかし時代は慶応3年(1867)徳川慶喜の大政奉還を迎える。

 

 慶応4年(1868)旧幕府軍に属する高浜・梶原台場は津藩が、楠葉台場は小浜藩が守備していた。1月3日に勃発した鳥羽・伏見の戦いに敗れた旧幕府軍は5日、淀城への入城を拒まれ、6日までに楠葉台場近くの男山・橋本に集結した。

 

 同日、高浜台場の津藩が旧幕府軍を裏切って突然楠葉台場に向けて砲撃を開始、楠葉台場もこれに応戦したが、新政府軍がこれに呼応して攻め寄せ、旧幕府軍は総崩れとなり、この夜、大坂城の慶喜は城を脱出し大坂湾から開陽丸に乗り込み江戸に撤退した。これにより鳥羽・伏見の戦いは終結する。

 

 

以下、現地案内板より

 

 この砲台は慶応2年(1866)10月淀川の守りとして幕府の命により対岸の楠葉砲台とともに築かれたものです。周囲約180m高さ2.5mの堅固なものであったようです。高浜は藤堂藩が守備し対岸の楠葉砲台は酒井藩が守っていました。慶応4年正月、鳥羽伏見の戦いに敗れ楠葉まで退いていた旧幕府軍に対し、新政府方に帰順した藤堂藩は砲撃を仕掛けました。楠葉も応戦しましたが撤退することになりました。
 砲台跡は高浜と広瀬との境界付近にあり、現在は河川敷ゴルフ場になっています。