①二の丸御殿玄関
②太鼓櫓
③夜景
訪問日:1991年5月(①②) 2000年4月
所在地:静岡県掛川市
最初に訪れたときはまだ天守は再建されておらず、二度めの時は日が暮れてしまっていた。
掛川城の城主といえば「功名が辻」の山内一豊が真っ先に思い浮かぶが、意外にも越前朝倉氏の一族?が城主(正確には城代か)だった頃がある。
朝倉孝景(義景の父)の弟・景高は孝景と対立して大野郡司を罷免され、天文9年(1540)上洛して公家衆や幕府要人に近づき、孝景への謀反を企てるも失敗して京都から追放される。
すでに16歳くらいになっていたと思われる嫡男の景鏡は父には同調しなかったのか、大野郡司を引き継いで一族衆の筆頭の地位にあったが、この人も最期は義景を裏切ってその首を織田信長に差し出して降伏を許されている。
若狭武田氏の下に逃れた景高であったが、やがて天文12年(1543)若狭を出て、和泉国堺湊から西国に逃れていったという。
天文14年(1545)に生まれた朝倉在重(河内守)はその景高の子で、父と別れて駿河に逃れて、今川義元を頼ったというのであるが、状況からしてこの父子関係が成立するかどうかは疑問。
在重は駿河国安倍郡柿島を領し、今川氏が衰退した後は武田氏、続いて徳川氏に従ったが、天正18年(1590)の徳川氏の関東移封には従わず、新たに駿府城主となった中村一氏に仕え、慶長5年(1600)中村氏の伯耆移封後は再び徳川氏に仕え、元和元年(1615)に亡くなった。
一方、在重の長男・宣正は徳川氏の関東移封後、徳川秀忠の家臣となり、元和7年(1621)1万石に加増されるとともに、当時甲府藩主であった秀忠の三男・忠長の附家老となった。また妻である土井利勝の妹・清は忠長の乳母となった。
寛永元年(1624)忠長が駿河と遠江の一部(掛川藩領)を加増され、駿遠甲55万石を領すると、宣正は2万6千石を与えられて掛川城に入る。
しかし、寛永8年(1631)忠長が不行跡を理由に甲府に蟄居を命じられると、宣正も上野板鼻藩預かりとなる。徳川頼宣らの斡旋により一度は忠長とともに駿河に戻ったが、翌寛永9年、忠長に連座して改易され、大和郡山藩預かりとなり、その後赦されて義兄・土井利勝のもとで寛永14年(1637)に亡くなった。
宣正の早世した長男・宣親の子の重正は寛永21年(1644)摂津麻田藩主・青木氏の養子となり後に3代藩主となった。4男・忠興は安房北条藩主・屋代氏の養子となり2代藩主に、3男・宣季の子の忠位が忠興の養子となり3代藩主となった。(忠位は万石騒動で改易)
宣正の末子・正高や弟・在重(父と同名で石見守)の子孫が旗本として存続した他、土井氏の家臣となった子孫もいる。
山内一豊が建てたという天守は慶長9年(1604)の大地震で倒壊し、松平定綱が藩主であった元和7年(1621)に再建された。その天守も幕末の安政元年(1854)安政東海地震により再び倒壊した。
嘉永4年(1851)に描かれた再建天守の絵図面が残っているが、平成6年に復元されたという天守は山内氏の高知城を参考としており、高欄がなく下見板張りの絵図面とは大きく異なっている。
以下、掛川観光ガイドブックより
掛川城
掛川城は、室町時代に駿河の守護大名今川義忠が遠江進出を狙い、家臣の朝比奈泰煕に命じて築城させたのがはじまりです。戦国時代には"内助の功" の話で有名な山内一豊が10年間城主となって、戦乱で傷んだ城の大修復や城下の整備を行うとともに、天守閣を建立しました。江戸時代には、江戸城を築いた太田道灌の子孫、太田家など11家26代の居城として栄え、天守閣の美しさは「東海の名城」とうたわれました。そして、今日の掛川城は、平成6年4月、当時の美しさをそのままに、日本初の本格木造天守閣として復元されたものです。掛川市を眺望する天守台は、海抜56m。緑に包まれた美しい町並みが見渡せます。
掛川城は、室町時代に駿河の守護大名今川義忠が遠江進出を狙い、家臣の朝比奈泰煕に命じて築城させたのがはじまりです。戦国時代には"内助の功" の話で有名な山内一豊が10年間城主となって、戦乱で傷んだ城の大修復や城下の整備を行うとともに、天守閣を建立しました。江戸時代には、江戸城を築いた太田道灌の子孫、太田家など11家26代の居城として栄え、天守閣の美しさは「東海の名城」とうたわれました。そして、今日の掛川城は、平成6年4月、当時の美しさをそのままに、日本初の本格木造天守閣として復元されたものです。掛川市を眺望する天守台は、海抜56m。緑に包まれた美しい町並みが見渡せます。
太鼓櫓
太鼓櫓は、城下に時を知らせる大太鼓をおさめてあった建物。"報刻の太鼓" は御殿広間に展示されています。
太鼓櫓は、城下に時を知らせる大太鼓をおさめてあった建物。"報刻の太鼓" は御殿広間に展示されています。
掛川城御殿
御殿は江戸時代後期の建物で、公的式典の場、城主の公邸、藩の役所としての機能を持った施設です。現存する城郭御殿としては、京都二条城など全国でも数少ない貴重なもので、国の重要文化財に指定されています。
御殿は江戸時代後期の建物で、公的式典の場、城主の公邸、藩の役所としての機能を持った施設です。現存する城郭御殿としては、京都二条城など全国でも数少ない貴重なもので、国の重要文化財に指定されています。