摂津 麻田陣屋 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①陣屋跡碑

 

訪問日:2006年6月

 

所在地:大阪府豊中市

 

 青木重直は美濃の豪族で、武蔵七党の一つ丹党の末裔と称する青木氏の一族で、戦国時代は土岐氏や斎藤氏に仕えた。永禄2年(1559)織田信長が上洛した際にはその刺客の一人であったと伝わる。しかし、斎藤氏滅亡後は信長の家臣・丹羽長秀に仕えた。越前北ノ庄城主などを務めた青木一矩との関係は不明。

 

 天文20年(1551)に生まれた長男の一重は父の下を離れて駿河の今川氏真に、そしてその没落後は徳川家康に仕え、姉川の戦いや三方ヶ原の戦いなどに出陣した。

 

 天正元年(1573)家康の下を出奔し、父を頼り長秀に仕えた。一方、家康の下に留まった実弟の渥美重経は武田信玄との戦いで討死している。

 

 天正13年(1585)の長秀の死後は父とともに羽柴秀吉の家臣となり、摂津国豊島郡などに1万石を与えられた。秀吉の死後は豊臣秀頼に仕え、その親衛隊(七手組)の組頭となった。

 

 慶長19年(1614)大坂冬の陣の和議交渉に家康を訪ねた際に京都で板倉勝重に捕えられ、大坂に戻れば徳川氏の旗本である弟・可直を処断すると脅され、夏の陣には参戦せず剃髪して隠棲した。

 

 しかし、戦後家康に召し出されて改めて豊島郡などに1万2千石を与えられ、元和5年(1619)夏の陣で一重に代わって青木氏を指揮した養子の正重(小寺則頼と妹との間の子)を廃嫡して可直の子・重兼を養嗣子とし、可直に2千石を分与した。正重は剃髪して小寺道伯と名乗り、寛永5年(1628)の一重の死後は重兼をよく補佐した。

 

 重兼には嗣子がなく、若狭小浜藩主・酒井忠勝の3男・可一を養子としていたが、寛永21年(1644)家督を相続することなく18歳で早世し、忠勝の娘を母とする重正を婿養子として、寛文12年(1672)家督を譲って出家した。

 

 重正の実家は越前朝倉氏と言われ、実父の朝倉宣親は駿河大納言・徳川忠長の附家老で掛川城主の朝倉宣正の嫡男であったが寛永6年(1629)に亡くなった。(宣正の父・在重は朝倉義景の従兄弟とされている)寛永9年(1632)忠長の改易とともに朝倉氏も除封されていた。

 

 麻田藩は明治維新まで青木氏が世襲し、明治17年(1884)子爵に叙された。

 

 

以下、現地案内板より

 

記念物(史跡)  麻田藩陣屋跡

 

 藩主を青木氏とする麻田藩は、石高一万石余りの外様大名です、
 大阪の陣で、初代藩主は豊臣方の武将でしたが、陣後、家康に召され、ここ豊中市蛍池に本拠の陣屋を構えました。以後一貫して当地に存続した、豊中にゆかりの深い大名家です。
 当時のことを記した絵図によると、陣屋は方形で周囲に濠をめぐらせ、面積は五反余りあったと言われています。内部には大名の居住する御殿のほか、会議所・柔剣道場などがあり、周辺には家臣の邸宅がならんでいました。文久三年(1863)の記録によれば、家臣の数は百十人余りあったものと記されています。

 

豊中市教育委員会