播磨 小松原城 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①三社大神社

イメージ 2②城跡碑と大福寺

イメージ 3③城跡碑

イメージ 4④集落図

 

訪問日:2015年10月

 

所在地:兵庫県高砂市

 

 集落図を見ると、加古川と洗川の三角州に造られた環濠集落といえる。洗川は埋められて住宅地などになったが、Googleマップでもその流れの跡は確認でき、現在の荒井中学校や高砂市役所の場所を流れて法華山谷川とともに伊保港を河口としていたのだろう。

 

 播磨国風土記によると景行天皇は印南分嬢(日本武尊の母)へ妻問いに播磨へ出向いたが、分嬢は身を南毘都麻島(なびつまのしま)に隠した。天皇は「賀古松原」で分嬢の犬が海に向かって吠えているのを見つけて海を渡り、分嬢と出会って夫婦となった。南毘都麻島は三角州を形成する島のひとつで現在は完全に陸地になっているといったところだろうか。

 

 宝治元年(1247)宝治合戦(三浦氏の乱)で滅んだ三浦泰村の弟で僧となっていた良賢が弘長元年(1261)6月22日、謀反を企てたとして鎌倉亀谷石切谷で平盛時や諏訪盛重らに捕らえられる。赤松盛忠はこれに従っていたのだろうか。

 

 すでに建長8年(1256)鎌倉極楽寺に引退していた北条重時(北条時宗の外祖父)はちょうどこの6月1日に病に倒れ、同じ22日に一度回復したが、11月3日に極楽寺で亡くなっている。

 

 

以下、現地案内板より

 

小松原城

 

一、地勢
 播磨国に流れる大河、加古川三角州の頂点に位置する、周りを水に囲まれた天然の要害の土地である。
 古代より開発された土地で、貝塚あり、銅鏡、弥生式土器・須恵器・土師などの出土はその証左である。
 
一、築城
 鎌倉時代中期、赤松盛忠は弘長元年(1261)六月、北条重時に従い武功によって播州印南郡小松原の地を与えられ、これより姓を小松原盛忠と改め築城する。
 中世の城は環濠城郭集落である。今日なお外には環濠の跡、内にはT字路、要(かなめ)に社寺の配置を見ることができる。

 

一、城主
 赤松家は六十二代村上天皇の第七皇子具平親王を祖とする播磨国の名門である。小松原城歴代の城主は、次の通りである。

 

初代・小松原盛忠―二代・義景―三代・景満―四代・永春―五代・春武―六代・武香
 

 二百余年にわたり赤松一門は、加古・印南両郡内各地に主長として君臨している。
 初代盛忠公の墓碑多重塔及び一族の五輪等は、大福寺、どろま地蔵堂に多数現存している。

 

一、結び
 小松原盛忠公は、城主のみならず、高砂市における中世の武将であり、政治、経済、文化の偉大な貢献者である。城址の碑建立に際し、祖先の足跡を偲び顕彰する次第である。

 

平成十年(1998)六月吉日  当神社宮司識之

 

『小松原城跡案内板』より