近江 弘誓山 宗安寺 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①旧佐和山城門•赤門

イメージ 2②本堂

イメージ 3③木村重成首塚

 

訪問日:2015年10月

 

所在地:滋賀県彦根市

 

 徳川家康の位牌安置所でありながら、本尊は淀殿の念持仏であった阿弥陀如来立像だという。寺伝によると、慶長20年(1615)大坂夏の陣で大坂城が落城した際、井伊直孝の家臣・所藤内が城内から運び出して彦根の屋敷に安置していたが、元禄14年(1701)の大火で宗安寺は焼失し、翌年に長浜城から殿舎を移築して本堂とした際に、所家から寄進されたものだという。

 

 さらにこの寺には、石田三成が佐和山城の麓に母を弔うために建立した瑞岳寺で祀っていたという地蔵菩薩像と千体仏が伝えられている。

 

 これらは徳川幕府の時代には当然のことながら公にはできず、口伝として伝えられ、明治になって公表されたのだという。徳川譜代の筆頭格の井伊氏ゆかりの寺がその秘密を守り続けたのは、近江出身の淀殿や三成の冥福を祈ってのことだろうか。

 

 また、大坂夏の陣で、髪に香を焚きこめた首を井伊氏家臣・安藤重勝に討ち取られた木村重成の首塚も見ることができる。

 

 重成は文禄4年(1595)豊臣秀次事件に連座して自害した山城淀城18万石の城主・木村重茲の子といわれ、母とともに近江に逃れ、後に赦されて母が豊臣秀頼の乳母となったことから秀頼に小姓として仕えた。享年は23歳くらいだったと思われる。

 

寺は城下町をイメージした夢京橋キャッスルロード沿いにあり、道路向いの酒屋で長寿金亀・純米吟醸(緑60)を購入する。

 

 

以下、現地案内板より

 

「宗安寺」
 弘誓山宗安寺じゃ、百万遍知恩寺を本山とする浄土宗寺院です。足利尊氏・直義兄弟が各国ごとに一寺を選び、安国寺と名づけた寺院のひとつ。上野国(現群馬県)の安国寺がその起こりと伝えます。天正18年(1590)頃、のちの彦根藩初代藩主・井伊直政が箕輪(現群馬県箕郷町)の城主であったとき、正室の東梅院が両親の菩提のために再興されました。
 慶長3年(1598)、直政が高崎城主となると安国寺も高崎(現群馬県高崎市)に移転、関ヶ原の合戦後の同6年、直政の近江佐和山への転封にともなって、佐和山の麓に移転しました。彦根城築城が開始された同8年以降、現在の地に移り、安国寺から宗安寺へと寺号を変えました。
 元禄14年(1701)の元禄の大火で表門(赤門)を除いて全焼、翌年に長浜城殿舎を拝領して本堂を再建したといいます。本尊・阿弥陀如来像(滋賀県指定文化財)は、像内に文永7年(1270)の奥書のある経巻などが収納され、像もこの頃の制作と推定されています。

 

「権現忌」
 宗安寺は、元和2年(1616)の徳川家康没後、彦根藩における家康の位牌安置所となり、大々的に法要が執り行われました。代々藩主も彦根在中のときは自らが参詣しています。

 

「朝鮮通信使の宿泊」
 朝鮮通信使は、朝鮮国王が日本の武家政権へ、つまり江戸時代には徳川幕府へ派遣した公式の外交使節です。彦根は、通信使の来日ごとにその宿泊地にあてられていました。大使節団であったため、宿泊施設はいくつかに分散されましたが、宗安寺は、特に重要な三使をはじめとする上官の宿泊所となりました。

 

「赤門と黒門」
 宗安寺の表門は、朱塗の門であることから、「赤門」と呼ばれて親しまれています。佐和山城の大手門を移築したと伝えるもので、元禄14年(1701)の大火で唯一焼残った施設といいます。街路拡張整備工事により、西へ約5.5メートル移動しました。
 黒門は、朝鮮通信使の宿泊の際、勝手口として利用されたといいます。老朽化していたため、新たに復元しました。