①城跡碑
訪問日:2000年4月
所在地:静岡県沼津市
北条氏の砦跡に天正7年(1579)武田勝頼が築城した。天正10年(1582)武田氏の滅亡を前に落城し、徳川家康の家臣の松平康親・康重父子が城主となった。(名目上の城主は家康の4男・忠康)
天正18年(1590)津軽為信がここで豊臣秀吉に謁見し、所領を安堵された。同年、北条氏が滅亡し、家康が関東に移封されると、駿府城に入った中村一氏の弟・一栄が三枚橋城に入った。
関ヶ原の戦いの後、東軍についた中村氏は伯耆に転封となり、慶長6年(1601)大久保忠佐が2万石で城主となった。
慶長18年(1613)忠佐の嫡男・忠兼が15歳で早世し、忠佐は23歳年下の弟・忠教を養子にしようとしたが、忠教がこれを固辞したため、同年中に忠佐が亡くなると、無嗣断絶となり、翌年、三枚橋城は廃城となった。
相続を固辞した忠教は通称の大久保彦左衛門として知られる人で、徳川氏と大久保氏の歴史と功績を記した家訓書「三河物語」を執筆した。
また、彦左衛門と一心太助の物語は江戸から現代まで、講談・歌舞伎そして映画・ドラマとなって何度となく演じられている。
一心太助は架空の人物のようだが、実際、彦左衛門は義侠の人で、自らの出世を望まず、浪人たちの面倒を見るために奔走した人物で、慕われていたらしい。
安永6年(1777)水野忠友が2万石で沼津を領し、三枚橋城の跡地に沼津城を築いた。
以下、現地案内板より
三枚橋城(沼津古城)の石
この囲いの石は昭和48年5月上土町の静岡相互銀行新築工事場より発掘された三枚橋城当時の石垣の石を移したものであります。石材を割る石○の跡が残されている。