伯耆 鳥取藩由良台場 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①東から

イメージ 2②砲座

イメージ 3③西から

イメージ 4④内部

イメージ 5⑤由良川と土塁

イメージ 6⑥虎口

 

訪問日:2015年8月

 

所在地:鳥取県東伯郡北栄町

 

 「名探偵コナン」の原作者・青山剛昌氏の出身地であり、「青山剛昌ふるさと館」の近くに鳥取藩由良台場がある。時間も無くなってきたのでコナン関係はまたの機会にして、遺構が完存する台場見学へ。

 

 鳥取藩の最後の藩主・池田慶徳は幼名を五郎麿といい、水戸藩主・徳川斉昭の5男で、先代の慶栄(この人も加賀前田藩からの養子だった)が嘉永3年(1850)17歳で急死したため幕命により養子となり、鳥取藩主となった。15代将軍となる徳川慶喜(七郎麿)は異母弟である。

 

 慶徳は水戸出身らしく尊王攘夷を主張し、文久3年(1863)には摂津安治川台場を守備していた鳥取藩の警備隊が英国船を砲撃するという事件を起こした。

 

 藩内では尊攘派と親幕派が対立し、同年、京都本圀寺で尊攘派藩士22名が親幕派の藩重役3名を暗殺するという事件も起こしている。

 

 明治元年(1868)の鳥羽・伏見の戦いでは官軍方について慶喜と袂を分かち、続く戊辰戦争においても官軍として転戦した。

 

 明治10年(1877)慶徳は亡くなり、次男・輝知が家督を相続しているが、その輝知も明治23年(1890)に男子を残さずに亡くなると、慶喜の5男・仲博が養子となり、池田氏と慶喜の和解が成立した。

 

 

以下、現地案内板より

 

国指定史跡・鳥取藩台場跡  由良台場跡   指定年月日 昭和63年7月27日

 

 鳥取藩台場跡は、江戸時代末期、文化5年(1808年)のフェートン号事件、文政8年(1825年)の異国船打払令など諸外国との緊張が高まる中、沿岸警備のため築造された。その築造場所は、鳥取藩の海岸線東西160km(四十里)の内、重要港湾を控えた8箇所(浦富、浜坂、賀路、橋津、由良、赤碕、淀江、境)である。
 由良台場跡は、藩倉が置かれた由良湊に造られている。この台場の築造は、高島秋帆に西洋技術を学んだ武信潤太郎総指揮のもと文久3年(1863年)から行われたが、藩財政が窮乏していたため、藩からの出資金無しで築造工事は進められた。男女問わず16歳から50歳までの農民が動員され、その延べ人数は7万5千余人に及んだとされ、その人夫賃等の費用は中・大庄屋、豪農らの献金にまかなわれたと伝えられる。文久4年に完成した台場は、東西125m、南北83m、周囲に高く土塁を巡らせ、その高さは4.5mにも及ぶ。台場内側は、三段になっており、砲座を中段から上段にかけて設け、そこに計4門の大砲が配置されていた。大砲は、由良湊近くの六尾反射炉で製造されたもので、それぞれ60斤砲、24斤砲、18斤砲、5寸径砲であった。幕末動乱期における鳥取県の歴史を知る上でも資料的価値の高い貴重な史跡である。

 

平成19年3月 鳥取県教育委員会