伯耆 三徳山 三仏寺(投入堂) | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①国宝投入堂(奥院)

イメージ 2②観音堂

イメージ 3③鐘楼

イメージ 4④文殊堂

イメージ 5⑤本堂

イメージ 6⑥遥拝所より投入堂

 

訪問日:2015年8月

 

所在地:鳥取県東伯郡三朝町

 

 「世界一危険な国宝」は本当に危険だった。元々登るかどうかもスケジュールの消化次第だったが、天神山城・防己尾城・鹿野城と順調に来たので、やはりあの投入堂を目の前で見てみたいと思い登ることにしたが、帰り道、連れの身に落とし穴が待っていた。

 

 三仏寺は、慶雲3年(706)に役行者が修験道の行場として開き、法力で蔵王権現を祀った仏堂を投げ入れたとされるが、伝説の域を出ず、それでも権現像の体内に納められた文書に仁安3年(1168)と記されており、平安時代後期までは遡ることができるという。

 

 夏休みでもこれまでは全く渋滞などには遭わなかったが、ここの周辺には駐車車両であふれており、人気スポットになりつつある感じだが、外国人の方には出会わなかったと思う。

 

 何といっても見どころは投入堂で、立ち入ることはできないが、近くまで行くことはできる。本堂から約700mの距離を、途中の文殊堂や地蔵堂に立ち寄って景色を楽しんだり、鐘楼で鐘を突いたりしながら。約70分かけて辿りついた。

 

 連れのアクシデントも大事には至らず、参拝を後悔せずに済んだ。今後は世界遺産も目指すとされていることもあり、早いうちに投入堂を見ることができたのは幸いだった。国際的観光地としては三朝温泉とセットになると思うが、投入堂はともかく、あの三朝温泉の河原風呂は外国の方にはどのように映るのか聞いてみたい。

 

 近世の鳥取藩主池田氏は寺領の寄進や本堂の再建などの庇護をしているが、戦国時代の山名氏や尼子氏、毛利氏・南条氏などがこの寺と関わってきたのかは残念ながらわからなかった。文殊堂や地蔵堂は室町時代後期の建築と考えられており、何らかの関わりがあった可能性もあろう。

 

 
以下、パンフレットより

 

三徳山のはじまり

 

その開山は慶雲3年(706)までさかのぼります。役の行者が3枚のハスの花びらを散らし、「仏教に縁のあるところに落ちるように」と祈ったところその1枚が伯耆の三徳山に落ち、この地を修験道の行場として開いたのがはじまりとされています。その後、嘉祥2年(849)慈覚大師によって阿弥陀如来・大日如来・釈迦如来の三尊が安置されたので、天台宗三徳山三仏寺と称し、堂舎38宇・寺三千軒・寺領1万町歩・3千石を領していました。

 
 
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