河内 楠正長旧跡 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①楠正長旧跡

イメージ 2②楠正長旧跡

 

訪問日:2015年8月

 

所在地:大阪市生野区

 

 金剛寺の帰りに立ち寄ったレストランの横にあったので写真に収めておいた。楠木正儀の息子としては正勝・正平・正元・正長・正則・正秀と養子として津田正信の名前が伝わっているが、敗者の悲哀で正確なことはよくわからない。

 

 その中で、正秀は正儀の子とも孫(正勝の子)ともいわれるが、南北朝合一後も後南朝に仕えた。嘉吉元年(1441)嘉吉の乱で6代将軍・足利義教が殺害され、跡を継いだ義勝も2年後の嘉吉3年(1443)に10歳で亡くなった。8代将軍は8歳の弟・義政に決定されたが、その就任は宝徳元年(1449)まで待たなければならなかった。

 

 その義勝の死去直後、正秀率いる楠木氏・和田氏の兵が後花園天皇の内裏を襲って火をかけ、三種の神器のうち剣と神璽を奪い、比叡山・根本中堂に立て籠った。

 

 朝廷が追討令を出すと幕府軍や協力を拒んだ延暦寺の山徒により鎮圧された。首謀者の金蔵主や日野家嫡流の日野有光が討ち取られ、正秀は逃亡した。

 

 剣は清水寺で発見されたが、神璽は後南朝が持ち帰った。14年後の長禄元年(1457)嘉吉の変で義教を討った赤松氏の遺臣がこれを奪い返して赤松政則が再興を果たした。

 

 
以下、現地案内板より

 

史跡 楠正長旧跡 由来

 

 巽南の地は、もと河内国渋川郡四条村といい、この一画はその氏神、天神社のあった所である。楠正長は、南北朝時代の武将、楠正成の孫にあたる人で正成の子正儀の三男として文中元年(1372年)春、隣村の正覚寺村に生まれた。
 幼名を三虎三郎といい四条桑原寺の僧、祐存に養育された。少年の頃より志気は甚だ剛強で、文武両道に励み成長するに及んで還俗し、右京進正長と名乗る。二十二才の頃より楠一族の霊を弔うため父祖の戦跡を巡り、のち伯父正行の戦場四条畷の山麓に居住した。以後、俗塵を避けて各地を転々とし、応永19年(1412年)桑原寺の近くにあった天神社に隠棲し、その祭祀を掌る。名も四条居士と号す。もと四条畷に住んでいた故であり此の里の名の起こりと云われている。その後、正長は本願寺の六世、巧如上人に帰依し名も定願と改め僧となり、僅かに一宇を建てて勤行し一族の霊を慰めると共に多くの村民を教化したが、応仁2年(1468年)97才を以て寂す。これが当地の定願寺の始まりである。
 現在の生野区巽南一丁目にある定願寺は、僧 定願によって創建されたものです。楠正長旧跡記念碑のある一帯が天神社で「遠宮さん」と呼ばれていました。当時は、広大な森や池、小高い山もあったようで、ここに正長が住居を構えていた所といわれています。今は、クスノキの大木と正長の記念碑が残るのみとなり当時の面影をそこに見いだすことはできません。

 

平成12年4月  大阪市建設局   資料提供 横野万葉会