河内 岡山城(忍陵神社) | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①忍ケ丘

イメージ 2②忍岡古墳覆屋

イメージ 3③忍陵神社

 

訪問日:2013年1月

 

所在地:大阪府四条畷市

 

 岡山城は、三好長慶が飯盛山城に移った永禄3年(1560)ころにその北東にある前方後円墳を利用して築かれた支城で、城主の結城氏は田原城の田原対馬守と同様に熱心なキリシタンであった。

 

 慶長20年(1615)の大坂夏の陣で将軍・徳川秀忠がここ岡山城跡に本陣を置き、勝利した縁起の良いところとして「御勝山」とも称される。

 

 ややこしいのが、前年の大坂冬の陣でも秀忠はかつて岡山と称した現在の大阪市生野区の前方後円墳(御勝山古墳)に布陣して、ここも同様に「御勝山」と称するようになっているのである。

 

 遡ると、秀忠の父・徳川家康は元亀元年(1570)の姉川の戦いにおいて、近江浅井郡姉川河原(現在の滋賀県長浜市)の岡山に布陣して、その後「勝山」と呼ばれるようになっている。

 

 そして、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでも、家康は岡山(岐阜県大垣市)に布陣して、ここを後に勝山と呼ばせている。(その後、岡山から桃配山に陣を移す)

 

 縁起を担いでいるのだろうが、家康・秀忠は姉川の戦い以降、重要な戦において、「岡山」というところを探してそこに布陣し、勝利の暁にはその場所を「勝山」と呼ばせているのである。

 

 

以下、現地案内板より

 

式内社忍陵神社(しのぶがおか)

 

 当神社は今から1200余年前より当地域(岡山・岡山東砂地区)の守護神熊野皇大神(諸願成就・災難消除)、藤原鎌足公・大将軍神(日本最古の方除の神)・馬守大神(交通安全・家業繁栄)をおまつりしています。古くは津桙社・大将軍社・馬守社と別々におまつりしていましたが明治・大正時代に三社が合祀され現在の地名に改称されました。又、醍醐天皇の延長5年に定められた延喜式神名帳に記載された全国3132社ある延喜式内社(津桙神社)の一社でもある立派な鎮守様です。この歴史ある伝統文化にさせられてきた鎮守の森には、古墳時代前期(4世紀)の前方後円墳の石積石室が現存され、府下でも貴重な文化財であり戦国時代には当地が軍事上大へん重要な地に選ばれ、歴史上何度となく登場する処でありますが特に大阪夏の陣では徳川方の本陣が設営され徳川幕府成立に大きな役割を成した場所でもあり縁起の良い処として、御勝山と称された由緒ある鎮守の森でもあります。

 

 

忍丘古墳(大阪府指定史跡)

 

 この古墳は、古墳時代前期(4世紀中ごろ)に築造された全長87mの前方後円墳です。標高36m、河内平野を一望できるこの場所に豪族が豪華な副葬品とともに葬られていたのです。
 古墳の発見は、昭和9(1934)年の室戸台風によって忍陵神社が倒壊し、その再建工事中に石室が発見されたことにはじまります。
 翌年、京都大学によって発掘調査されました。石室は、長さ6m・幅1mで、板状の石を丁寧に積み上げた立派な竪穴式石室でした。近年の研究で兵庫県猪名川産の石が使われていることがわかりました。副葬品は、紡錘車・鍬形石・石釧や小札・剣・鉾・刀子・矢じり・鎌などが見つかりました(京都大学総合博物館蔵)。同年、地域の方々の熱意で覆屋が建てられ保存されました。
 長い間石室を保護した覆屋ですが、平成7(1995)の震災によって傾いたのを機に覆屋再建が計画されました。地域の方々の寄付を基盤に、平成14(2002)年12月、覆屋が完成しました。このような貴重な竪穴式石室が保存され見学できるのは郷土の誇りです。

 

大阪府教育委員会 四條畷市教育委員会 畷古文化研究保存会