紀伊 新宮城 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①本丸虎口

イメージ 2②本丸石垣

イメージ 3③本丸を望む

イメージ 4④案内図

 

訪問日:1995年5月

 

所在地:和歌山県新宮市

 

 保元の乱(保元元年・1156)に敗れて嫡男の義朝により処刑された源為義と熊野(新宮禰宜鈴木重忠か)の娘との間には鳥居禅尼(丹鶴姫)と十郎行家が生まれている。

 

 鳥居禅尼は19代熊野別当となる行範(新宮別当家)の妻となり、22代・行快や23代・範命、新古今和歌集で知られる行遍や21代・湛増(田辺別当家・行範の従兄弟)の妻らを儲けている。

 

 行家は平治の乱(平治元年・1159)では兄・義朝に味方するが敗れて戦線を離脱して熊野に逃れ、20年にわたりここに潜伏する。

 

 治承4年(1180)源頼政に召し出されて、以仁王の平家追討の令旨を全国の源氏に伝達した。平家物語では行家の動きを湛増により平家に密告され、以仁王の挙兵が露見したとされている。

 

 平家追討後、源頼朝と対立し、義経とともに元暦2年(1185)後白河院から頼朝追討の院宣を受けるが、味方する者は少なく、都を落ちる。

 

 西国渡航にも失敗した行家は、和泉国・近木郷の日向権守清実の屋敷(のちの畠中城)に潜伏するが、翌年(文治2年・1186)、露見して捕えられ、2人の息子とともに処刑された。

 

 一方、鳥居禅尼は行範亡き後の熊野別当家を指導した。娘婿の湛増は源頼朝の挙兵以後は、源氏に味方して元暦2年の壇ノ浦の戦いで熊野水軍を率いて勝利に貢献している。

 

 湛増は上総国・畔蒜庄の地頭職を認められたほか、頼朝は叔母である鳥居禅尼を厚遇して紀伊国の佐野庄・湯橋や但馬国多々良岐庄などの地頭に任じられ、鎌倉幕府御家人となった。

 

 鳥居禅尼が丹鶴姫と呼ばれた頃に住まいとしていたのが丹鶴山である。この地に近世城郭を築いたのが、関ヶ原の戦いの後、紀伊国を与えられ、和歌山城主となった浅野幸長の家老・浅野忠吉で、浅野氏の三原転封後は、紀伊徳川家の家老・水野氏が城主となり、明治維新を迎えている。