河内 丹下城(大塚山古墳) | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①墳丘

イメージ 2②石碑

 

訪問日:2011年11月

 

所在地:大阪府松原市・羽曳野市

 

 大塚山古墳は「大塚陵墓参考地」として治定され、被葬者には第21代の雄略天皇が候補に挙げられているが、特定はされていない。墳丘長は335mで、全国第5位という巨大な前方後円墳である。

 

 鎌倉時代、この古墳の上に丹下氏が居城を構え、南北朝時代には丹下三郎入道西念が北朝に与して南朝方の和田治氏らと戦った。

 

 戦国時代、河内守護畠山稙長の家臣となっていた丹下盛賢は、主と対立した守護代遊佐長教との交渉役となって活躍したが、天文14年(1545)病死した稙長の後を追うように亡くなり、畠山一族の平盛知が名跡を継いだ。

 

 稙長の甥で織田信長の妹婿・畠山昭高は天正元年(1573)長教の子・遊佐信教に暗殺され、その信教も翌年、信長に高屋城を攻められ討死、後に残った三好康長もさらにその翌年の天正3年(1575)信長に降伏した。信長は高屋城をはじめとする河内の諸城の破城を命じ、丹下城も廃城となった。

 

 昭高に仕えていた丹下遠守は、城を出て帰農した。そして江戸時代、その跡には前方部に集落ができ、後円部には天満宮が祀られた。大正14年(1925)になって陵墓参考地となり、住民は強制退去させられた。

 

 長きにわたって城郭や集落として利用された大塚山古墳は全国5位という規模にも関わらず天皇陵とは治定されず、参考地にとどまった。また仁徳陵などがある百舌鳥古墳群や応神陵などがある古市古墳群からやや離れたところにあり、世界遺産を目指す両古墳群のリストにも入っていない、少し可哀想な古墳である。

 

 

以下、現地案内板より

 

河内大塚山古墳

 

 河内大塚山古墳は、西大塚の東除川西側に発達した、中位段丘面に築かれている、周濠を持つ巨大前方後円墳である。墳丘規模は全長335m、前方部幅230m、後円部直径185m、前方部高4m、後円部高さ20mをはかる、前方部はほぼ北面する、人工の造山だが、後円部頂上は海抜45mに及び、松原市内で最も標高が高い。
 墳丘主軸長では、日本列島第5位のトップクラスだが、築造時期を決める資料に乏しい。しかし、①前方部は平板低平で、やや不整形をとること。②埴輪や葺石の存在がはっきりしないこと。③後円部に「ごぼ石」とよぶ巨石が存在するうえ、江戸時代後半の毛利家文書の「阿保親王事取集」(山口県立文書館蔵)に「磨戸石」とよぶ巨石が18世紀後半の宝暦~明和年間に見られたこと。④古墳内にあった石室材・石棺材と思われる竜山石や花崗岩が柴籬神社(松原市上田7丁目)などへ移されていること。
 このようなことから、横穴式石室が後円部につくられていた可能性があり、6世紀中葉から後葉の古墳と考えられる。
 中世には、丹下氏が古墳を利用して、丹下城を築いた。織田信長によって丹下城がこわされた後、江戸時代には前方部に大塚村が形成され、後円部には氏神の天満宮(菅原神社}が祀られた。
 大正10年3月に国の史跡(昭和16年12月解除)となり、大正14年9月に陵墓参考地となったことから、昭和3年までに数十戸の民家が濠外に立ち退いた。
 6世紀代の安閑天皇や、欽明天皇陵とする説があると同時に、墳丘未完成説も唱えられている。現在、宮内庁が管理する陵墓参考地である。

 

松原ライオンズクラブ 2010~'11