河内 誉田城(誉田八幡宮・誉田御廟山古墳) | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①誉田八幡宮拝殿

イメージ 2②八幡宮放生橋

イメージ 3③誉田林古戦場碑

イメージ 4④応神陵外濠外堤

イメージ 5⑤応神陵外濠外堤

イメージ 6⑥応神天皇陵拝所

 

訪問日:2011年12月

 

所在地:大阪府羽曳野市

 

 畠山総州家義就の孫・義英は明応3年(1494)8歳で元服した。尾州家の畠山政長を斃した父・義豊の万一に備えての処置だという。予感は的中して、 明応8年(1499)義豊は政長の子・尚順に敗れて河内で討死し、義英は逃亡した。

 

 この時は さらに進撃した尚順が義英の庇護者である細川政元に敗れて、再び紀伊に落ちていったので、義英はすぐに河内に復帰した。

 

 永正元年(1504)赤沢朝経や薬師寺元一が政元に叛くと、義英も政元からの独立を志向し、宿敵尚長(尚順改め)と誉田八幡宮で和睦を結び(下の誉田林古戦場案内板に稙長とあるのは誤りか)息子の勝王を尚長の猶子とした。

 

 永正3年(1506)政元に赦された朝経に誉田城と高屋城を攻められ、義英と尚長はともに没落した。しかし、翌年、政元が香西元長らに暗殺されると(永正の錯乱)、義英は高屋城に入った。

 

 ところが同年、尚長が和約を破って政元の養子・澄元と結び、その家臣で朝経の養子・赤沢長経に嶽山城(龍泉寺城)を永正5年(1508)に攻略され、義英はまた逃げ延びていった。

 

 ところが、尚長は澄元から足利義稙・細川高国・大内義興側に乗り換えると義英は足利義澄や澄元について尚長やその子・稙長と戦いを継続し、河内の争奪を繰り返した。

 

 義英の没年は明らかでないが、大永2年(1522)説が有力か。また、誉田城の場所は確定されていないが、高屋城など畠山氏は前方後円墳を積極的に活用しており、応神天皇陵(誉田御廟山古墳)を城として利用したこともないことはないかもしれない。

 

 

以下、現地案内板より

 

国指定史跡 古市古墳群  応神天皇陵古墳外濠外堤

 

 今からおよそ1,600年前から1,450年前にかけて、羽曳野丘陵の北端に広がる台地の一帯、東西4km、南北3kmの範囲には、当時の大王の墓と考えられる、全長200mを超えるような7基の大型の前方後円墳をはじめとする大小100基余りの古墳が築かれ、堺市の百舌鳥古墳群と並ぶ全国最大の古市古墳群として知られています。
 5世紀前半(およそ1,600年前)に築造された古市古墳群最大の応神天皇陵古墳は全長425m、高さ約36mの前方後円墳で、盛土の総量はダンプカー17万台分にもなり、全長約486mの百舌鳥古墳群の仁徳天皇陵古墳をしのぎ全国最大と言われています。墳丘の周囲には2重の濠と堤を設けるとともに数基の陪塚(付属の古墳)を配置し、絶大な権力を持つ大王の陵にふさわしい外周施設が厳重に整備されています。
 現在、西側の外濠、外堤部分は国の史跡として指定され、地下の遺構と築造当時をしのばせる景観が保護されています。

 

 

誉田八幡宮

 

 誉田別命(応神天皇)を祭神とし、永享5年(1433)につくられた「誉田宗庿(廟)縁起」には、欽明天皇が命じて応神陵の前に営んだ社を、後冷泉天皇の頃(1045~68)になって、南へ1町(約109メートル)離れた現在の場所へ造り替えたことが伝えられている。
 鎌倉時代から室町時代にかけては、源氏の氏神である八幡神を祀る社として、幕府の保護を受けて大いに興隆したが、戦国期にはたびたび合戦場となって兵火にかかることもあった。その後、豊臣氏からの社領の寄進や江戸幕府の庇護のもとに、社殿の再建と整備が進められた。『河内名所図会』や天保9年(1838)の『河内国誉田八幡根本社内之図』を見ると、本社や摂社、神宮寺の塔頭など、多くの建物が並び、参詣の人々で賑わうようすがしのばれる。
 源頼朝の寄進と伝えられる神輿や、丸山古墳で出土した鞍金具などの国宝、重要文化財の『誉田宗庿縁起』や『神功皇后縁起』など、多数の貴重な文化財が社宝となっている。

 

 

誉田林古戦場址

 

 誉田八幡宮の付近は、南北朝から室町戦国の各時代を経て、江戸初期の元和年間にかけて戦略上の要地であったため再三古戦場の舞台となったところである。
 すなわち、南北朝初期の正平年間には、北朝方の細川兄弟の軍と楠木正行の間で合戦が行われ、室町中期の享徳年間には畠山政長と義就の間で再三にわたり誉田合戦が行われた。すこし降って、永正元年(1504)には、前記の孫に当る畠山義稙長(タネナガ)と義英との間で合戦のあとで和議となり誉田八幡宮「社前の盟約」が結ばれたのもこの境内であった。大阪夏の陣の折には、大阪方の武将薄田隼人正もこの境内に大陣を置きこの地より出撃して道明寺近辺で、討死をとげたのである。