河内 城岸寺城 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①城岸寺

イメージ 2②城岸寺

 

訪問日:2010年8月

 

所在地:堺市美原区

 

 河内国丹比郡は平安時代後期に丹南郡と丹北郡に分割され、さらに丹北郡から八上郡が分立した。明治8年(1875)東大饗村と西大饗村が合併し、大饗村となり、明治22年(1889)大饗村ほか5つの村が合併して南八下村が発足した。
 
 明治29年(1896)八上郡ほか5郡と志紀郡の一部が合併して南河内郡が発足し、昭和33年(1958)大饗は堺市と美原町に分割編入され、平成17年(2005)美原町は堺市に編入されたが、今もかつての大饗は堺市美原区と東区に分割されている。

 

 弓削道鏡を寵愛した称徳天皇が行宮の饗応場を造らせたという由緒ある場所は、近代になって2つに分割され、現在は和泉国と間違えそうな住所になっている。地名が遷移していくのは世の常だが、最近の再編の状況には何か寂しさを感じる。

 

 

以下、現地案内板より

 

史蹟 大饗 城岸寺城跡

 

 別名大饗城ともいう。大饗の地名は称徳天皇の頃、(約1240年前)丹比行宮の饗宴場であったことに起因すると伝えられる。城岸寺城は南北朝の頃、楠公の一族である和田和泉守が城ヶ峯と称する周囲濠をめぐらした要害の地に城塞を築いたとされており、現在この濠は昭和五十六年に埋立てられ、城岸寺公園、児童館が設置された。
 和田氏は楠左衛門尉成康の二男、太郎親遠から始まり河内から泉州和田村に居城を構え和田氏を名乗った。(現在の岸和田城)その子、四郎高遠、その孫、正遠(正成の甥)その子孫、高家、正武等が城岸寺城に居を構えた。正平七年(約660年前)和田助氏の軍忠状(自分の手柄を記した書状)に大饗城の名が見えることは大阪府史、狭山町史に記載されている。その後、元享年間(約690年前)に融通念仏宗、中興の祖、法明上人が河内の国、念仏勧進の際、病気平癒のため、当城岸寺を建立し、現在当寺に伝わる通称「たくまはん」と呼ばれる阿弥陀如来来迎図があり信仰を集めている。「たくまはん」はその昔、一世を風靡した狩野派、巨勢派(巨勢の金岡は金岡神社の祭神)と並び称せられた宅磨派、宅磨法眼良賀の作といわれている。昭和五十六年に現在の本堂が建立された時、発掘調査が行われ南北朝の頃(約670年前)と推測される建物跡が発見された。尚、境内植込の石臼は前の本堂建立の際(約190余年前)に基礎石として、使用されていたものである。

 

無量山 城岸寺