出雲 松江城 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①天守

イメージ 2②天守

イメージ 3③二の丸下の段カラ本丸

イメージ 4④本丸水手御門

イメージ 5⑤二の丸太鼓櫓

イメージ 6⑥二の丸南櫓と中櫓

 

訪問日:2013年3月

 

所在地:島根県松江市

 

祝!国宝

 

 5月15日文化審議会が文部科学大臣に松江城天守を国宝に指定するよう答申した。松江城は関ヶ原合戦の功により出雲24万石を与えられ月山富田城に入った堀尾氏が新たに慶長16年(1611)に完成させた。1990年にも一度訪れているが、今回は新しい写真のみ採用した。

 

 堀尾吉晴は元々は尾張岩倉城の織田伊勢守家に仕えていたが、永禄2年(1559)傍流の弾正忠家の織田信長に滅ぼされて浪人し、後に信長に仕えて木下秀吉に付けられた。

 

 以後、秀吉に従って数々の合戦に参加し、天正18年(1592)徳川家康が関東に移封された後の浜松城に12万石を与えられた。

 

 秀吉の死後は家康に近づいて、前田利家や石田三成らと家康の間の周旋役となり、慶長4年(1599)、56歳で家督を忠氏に譲って隠居し、家康から隠居料として越前府中に5万石を与えられた。

 

 慶長5年(1600)上杉征伐に向かう途上の家康を忠氏とともに浜松城で歓待し、越前への帰国途中の三河国池鯉鮒(知立)で7月19日、事件が起こった。

 

 家康の叔父の三河刈谷城主の水野忠重(60歳)と美濃加賀野井城主の加賀井重望(40歳)と吉晴らとの宴会の席で、重望が忠重を殺害し、吉晴は負傷しながらも重望を討ちとった。忠重の家臣たちには共犯と勘違いされて襲われながらもなんとか切り抜けた。

 

 西軍の重望がなぜわざわざ三河に来て東軍の忠重や吉晴と会っていたのかわからないが、あるいは最初から二人を殺害するつもりでいたのかもしれないが、さすが戦国で数々の武功を挙げた吉晴は60近い年齢ながらも重望を返り討ちにしたというところか。

 

 ちなみに2カ月後の関ヶ原本戦の後、大垣城に籠った重望の息子は降伏・開城の際、寄せ手の忠重の息子勝成により処刑され、仇をうたれている。

 

 嫡子忠氏は松江築城準備中の慶長9年(1604)に27歳で急死、孫の忠晴が家督を継ぎ、吉晴はその後見人となった。

 

 同年中には隣国の伯耆米子城主中村氏にて御家騒動が勃発し、60歳の吉晴が中村一氏の要請を受けて出陣、騒動を鎮圧した。

 

 慶長16年(1611)松江城が完成した年に、吉晴没、享年68歳。
 

 

以下、1990年の松江観光協会パンフレットより

 

 松江城は、千鳥城ともいい、標高28.4mの亀田山にあり、堀尾吉晴が慶長12年から慶長16年(1611)に至るあしかけ5年の歳月を費やし、当時の技術の粋を結集して築いた城である。堀尾氏は3代(31年)で絶え、次の京極氏は子がなく、1代(4年)でお家断絶となり、かわって結城秀康の三男(徳川家康の孫)松平直政が信州松本から入った。その後明治維新に至るまで234年、
松平氏10代の居城であった。この間武家諸法度の制約から、防御的施設にはほとんど変動がなかったが、建物には増築、転用等があった。くだって明治8年に陸軍省により建物全部が競売にふされたが、このときに旧藩士が金を出し合わせて、180円で買いもどしたのが現存する天守閣である。天守閣は、昭和10年国宝(現在は重要文化財)に指定されたが、ひどく腐朽してきたので、昭和25年6月解体修理に着工、昭和30年3月完了した。また、近年櫓や門の一部が復元された。松江城は、天守閣など旧態をよく残しており、いまでは全国12天守閣の1つ、山陰地方唯一の城となっている。