相模 石垣山城 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①小田原城を望む

イメージ 2②天守台

イメージ 3③本城曲輪石垣

イメージ 4④二の丸櫓台

イメージ 5⑤井戸曲輪井戸

イメージ 6⑥南曲輪石垣

 

訪問日:2010年2月

 

所在地:神奈川県小田原市

 

 賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を滅亡させた羽柴秀吉は翌天正12年(1584)徳川家康や織田信雄と戦うが和睦し、天正13年(1585)四国の長宗我部氏を、天正15年(1587)には九州の島津氏を降して西日本を平定した。

 

 小田原城の北条氏政は天正7年(1579)から徳川家康と同盟しており、天正8年(1580)には織田信長に臣従を申し出ていた。天正10年(1582)3月の信長の甲州武田征伐には呼応して駿河の武田領に侵攻していた。

 

 武田氏滅亡後も氏政は信長との友好関係を望んでいたが、信長は滝川一益を上野厩橋城(前橋城)を与えて東国取次とし、その関係はむしろ悪化していった。

 

 同年6月2日本能寺の変が起こると氏政は神留川の戦いで一益を破り、関東から追放してさらに信濃まで進出、真田昌幸、木曽義昌、諏訪頼忠らを配下に加えた。

 

 また、空白地帯の甲斐に侵攻した徳川家康と戦ったが(天正壬午の乱)、真田昌幸が徳川に寝返るなど不利な戦況の中で嫡男氏直の妻に家康の娘督姫を迎えて和睦、上野は北条領となったが信濃・甲斐は放棄せざるを得なかった。この際、昌幸が沼田城明け渡しを拒否して徳川からさらに上杉へ寝返る。

 

 上杉景勝は氏政の実弟である上杉景虎を御館の乱で滅ぼして謙信の跡を継いでいたが、上野を北条氏と争っており、西の柴田勝家に備えるため羽柴秀吉と同盟していた。着実に天下統一を進める秀吉は天正16年(1588)後陽成天皇の聚楽第行幸の折に氏政・氏直父子に列席を要求したが氏政は拒否、北条討伐が現実味を帯び、氏政も臨戦態勢を布いた。

 

 この時は家康が間に入り、後に氏政の名代として弟氏規が上洛して一時的に関係は改善した。昌幸の問題は秀吉により沼田領は沼田城を含む3分の2を北条氏に、3分の1を昌幸にと裁定された。しかし氏政自身の上洛のことで対立が再燃、このような状況の中で天正17年(1589)10月、北条家臣沼田城主の猪俣邦憲による昌幸の名胡桃城奪取事件が発生する。

 

 秀吉は上使を派遣して事件の首謀者の処罰と氏政・氏直の即刻上洛を要求、北条氏側は名胡桃城主が勝手に寝返ってきたもので、すでに名胡桃城は返還したと弁明して上洛を拒否、秀吉は同年11月24日付、氏直へ宣戦布告状を送りつけた。

 

 

以下、現地案内板より

 

「国指定史跡」石垣山一夜城  
所在地 小田原市早川字梅ヶ窪一三八三番の一一番
指定  昭和三四年五月一三日

 

 史跡石垣山は、JR早川駅の西方約2.5km、国道一号線から東へ約1kmのところにあります。また小田原城まで僅か3kmのところにあり、標高257mの本丸からは小田原城や城下の様子が一望できます。
 石垣山は、もと笠懸山、松山などと呼ばれていましたが、天正18年(1590)豊臣秀吉が小田原北条氏の本拠小田原城を水陸15万の大軍を率いて包囲したとき、その本営として総石垣の城を築いてから石垣山と呼ばれるようになりました。この城を秀吉が一夜にして築いたようにみせかけたという伝承から、石垣山一夜城とか太閤一夜城などとも言われています。
 秀吉は、この城に滞在していた100日余りの間に天皇の勅使を迎えたり、千利休や能役者、猿楽師等を呼び寄せました。また自ら淀君などの側室も呼び、参陣の諸大名にもこれにならうよう勧めたと言われています。この城は単に小田原攻めの本営であるというだけでなく、太閤秀吉の威信を示すと共に、長期戦に備えた本格的な城構えであったといえます。
 この城は関東で最初につくられた石垣の城です。石積みは秀吉が連れてきた近江の穴太衆による野面積といわれるもので、小田原藩の管理下におかれていた江戸時代にも、度重なる大地震に耐え、今日まで当時の面影を大変よく残している貴重な城跡です。
 この石垣山は、土地所有者の松岡氏を始め地元関係者の御厚意により昭和62年度に公有地化することができ、現在歴史公園として一般に公開しています。

 

平成2年3月  小田原市