山城 伏見 旅館 寺田屋 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①外観

イメージ 2②外観

イメージ 3③外観

イメージ 4④坂本龍馬の部屋

イメージ 5⑤裏階段

イメージ 6⑥坂本龍馬像

 

訪問日:2011年5月(①) 2015年4月(②~⑥)

 

所在地:京都市伏見区

 

 寺田屋事件と呼ばれるものは2件あり、一つは文久2年(1862)島津久光の薩摩藩尊皇派志士の鎮撫事件、もう一つは慶応2年(1866)の伏見奉行の坂本龍馬ら襲撃事件である。

 

 文久2年、藩兵千人を率いて上洛した藩主の父島津久光は当時は公武合体派で、西郷隆盛を遠島処分にするなど保守的な考えを持っていた。4月16日入京した久光は朝廷から志士鎮撫の命令を受けた。

 

 この動きに憤激した有馬新七ら尊皇派志士たちは関白九条尚忠と京都所司代酒井忠義の首を討って久光に奉じて決起を促すことを計画した。

 

 この動きを察知した久光は、薩摩藩の定宿寺田屋に大久保一蔵らを派遣して説得させるが失敗、23日には決起を止められなかった永田佐一郎が切腹するという事態になった。

 

 決起が近いと判断した久光は奈良原喜八郎ら腕利きの藩士9名を鎮撫使に選んで4月23日寺田屋に派遣した。1階で面談した奈良原はまずは藩邸に同行するよう説得したが拒否され、激高した鎮撫使の道島五郎兵衛が「上意」と叫び、志士の田中謙助に斬りつけて薩摩藩同士の斬り合いとなった。

 

 結果、鎮撫使方は道島が死亡、1名が重傷、奈良原ら4名が軽傷3名は無傷だった。志士方は有馬ら6名が死亡、田中ら2名は重傷を負い後に切腹させられた。そのほかの志士たちは大半が投降して帰藩謹慎を命じられた。また、京都薩摩藩邸で療養中だった志士方の山本四郎は帰藩謹慎を拒み切腹させられた。山本を含む死者9名が後に烈士とされた。

 

 その他、久留米藩の真木和泉ら他藩の志士たちも居合わせていたが、投降してそれぞれの藩に引き渡された。また、引き取り手のない浪人たちは薩摩藩で引き取るとされたが、薩摩に向かう船中で薩摩藩士に斬殺され、海中に捨てられた。

 

 その4年後の慶応2年1月23日、薩長同盟の会談を斡旋した直後の坂本龍馬と長州藩の三吉慎蔵らを伏見奉行林忠交の捕方が襲撃したが坂本の妻・楢崎龍の機転で応戦した坂本らが捕方2名を射殺するなどして脱出に成功、薩摩藩邸に逃げ込み、西郷隆盛の保護を受けた。林は坂本らの引き渡しを要求したが薩摩藩はこれを拒否、その後、負傷していた坂本はお龍とともに薩摩へ療養の旅に出た。

 

 ちなみに、現在の寺田屋には龍馬の部屋や弾痕、刀傷などの表示がなされているが、どうやら当時の建物は鳥羽伏見の戦いで焼失しており、明治後期に再建されたものらしい。