大和 吉野城(金峯山寺) | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①国宝蔵王堂

イメージ 2②遠景

 

訪問日:2002年4月

 

所在地:奈良県吉野郡吉野町

 

 護良親王は延慶元年(1308)尊治親王(後醍醐天皇)の皇子として生まれた。6歳で尊雲法親王として三千院に入り、後醍醐天皇の意志により嘉暦2年(1327)20歳で天台座主となった。

 

 元弘元年(1331)後醍醐天皇が倒幕を志して笠置山に挙兵すると還俗して吉野山に挙兵した。親王が発した令旨に赤松則祐や村上義光らが呼応して親王のもとに馳せ参じた。

 

 しかし元弘3年(1333)幕府軍の6万が吉野山に押し寄せ、本陣の蔵王堂近くにまで迫ると義光が親王の身代わりとなって壮絶な自害を遂げ、親王を落ち延びさせる。

 

 その甲斐もあってやがて六波羅探題を滅ぼすも、功労者の足利尊氏と対立し、上洛せず引き続き信貴山にあった。建武の新政が開始されると上洛して征夷大将軍に任ぜられたが、鎮守府将軍となった尊氏とは引き続き相容れなかった。

 

 建武元年(1334)皇位簒奪を企てたとして捕えられ、身柄は足利氏に引き渡され、鎌倉にあった尊氏の弟足利直義の預りとなった。

 

 建武2年(1335)北条高時の遺児時行が中先代の乱を起こし鎌倉に迫ると、鎌倉放棄を決意した直義は親王を殺害させた。親王28歳、時行が親王を征夷大将軍とした鎌倉幕府の執権政治を復活させることを恐れた処置という。

 

 延元元年(建武3年・1336)京都を追われた後醍醐天皇が吉野に入り、朝廷は分裂して南北朝時代に突入する。