陸奥 大森城 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①大森城

 

訪問日:1998年1月

 

所在地:宮城県石巻市(旧桃生郡河北町)

 

 伊達成宗の次男葛西宗清の家督相続に反対する葛西四宿老の一、末永氏は明応8年(1499)宗清暗殺を謀るが失敗に終わった。しかし、その後も末永氏は深谷長江氏、登米鬼越氏そして山内首藤氏の支援を得て宗清に抵抗した。
 
 当時は山内首藤氏の全盛期で、山内首藤貞道と葛西宗清の対立は次第に深刻なものとなり、永正8年(1511年)宗清はついに貞道討伐の命令を下す。

 

 序盤は貞道が善戦したが、次第に追い詰められて、永正12年(1515)降伏して高野山に登った。嫡男知貞は、貞道の弟清道に養われ、その子頼嗣は伊達氏に仕えた。

 

 

以下、現地案内板より

 

大森城址

 

 大森城は、大森山一帯が城となる壮大なもので、本丸・二の丸・空濠・土壇等、今も当時の遺構がみられる中世の山城である。城制は梯郭式で鶴翼の陣形をみせ、高さ55m、東西600m、南北250m以上にも及ぶ。
 この城は、中世の桃生郡主、山内首藤氏の本拠地である。同氏は平泉征伐の軍功で桃生二十四郷を拝領し、この地方に栄えた。「永正合戦記」によれば、永井城(桃生町)からこの地に移り、ここを造営して住んだ、とある。時に南北朝期から室町中期(1350~1500)頃と推定される。
 永正年間(1515年頃)当主首藤貞道、知貞親子が、この城に拠って石巻城の葛西氏(十三世宗清)と戦った。この合戦に際し、葛西が総力を挙げて攻撃を加えても、どうしても陥落せず、やむなく兵糧攻め、長囲の計をめぐらせたので、ついに落城したと言う。同氏が滅亡することで、桃生郡は正式に葛西領となり、その後、大森城には葛西家臣の男沢氏が居住したと伝えられている。
 三輪田の谷津は、合戦のとき矢の落ちた「矢落ち」が訛った地名と言い伝えられ、谷津から大森へ越える道は「矢落坂」と呼ばれている。合戦にちなんだ地名である。

 

桃生郡河北地区教育委員会