豊後 臼杵城 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①二の丸を望む

イメージ 2②二の丸大門櫓•畳櫓

イメージ 3③卯寅口門脇櫓

イメージ 4④本丸空堀

イメージ 5⑤天守台

イメージ 6⑥二の丸櫓台

訪問日:2014年1月

所在地:大分県臼杵市

 大友吉統は永禄元年(1558)大友義鎮(宗麟)の長男として生まれる。母は宣教師たちがイザベルとあだ名した奈多八幡大宮司の娘の奈多夫人。初名は義統といい、天正4年(1576)父より家督を譲られる。

 奈多夫人はキリスト教に傾倒した宗麟と対立し、天正6年(1578)宗麟に離縁されている。イザベルとは古代イスラエルの王妃で教徒を弾圧したとされる人物である。

 同年、宗麟・義統父子は日向に勢力を急拡大させている島津氏を討つべく日向に侵攻するが、耳川の戦いで惨敗し、大友氏は急速に衰えていく。

 父との二頭政治は対立を生み、一族の田原氏や田北氏が反乱を起こすなど混乱が深まり、島津氏や龍造寺氏に肥後・筑後・筑前といった大友氏の勢力圏は奪われていった。

 そしてついに天正14年(1586)島津義久が秀吉の惣無事令を拒否して大友氏の本拠地豊後への侵攻を決意し、滅亡の危機を迎えた宗麟は自ら大坂城を訪れ、秀吉に援軍を要請する。

 同年12月、豊臣の援軍とともに戸次川で戦うが大敗、なおも宗麟は居城丹生島城(臼杵城)で奮闘するのをよそに義統は府内上原館から高崎城さらに龍王城へと逃れていった。

 翌天正15年(1587)2月奈多夫人が丹生島城で没、4月に秀吉の親征により島津氏は降伏し、豊後一国と豊前宇佐郡の半分を安堵され、隣国豊前の領主となった黒田孝高のすすめでキリスト教の洗礼を受けたが、直後の禁教令のため2か月で棄教している。

 そして、宗麟は島津氏の降伏を知ってか知らずか5月に豊後津久見で亡くなっている。秀吉は宗麟にも日向国を与えようとしたが、宗麟は辞退したと伝わっている。

 天正16年(1588)義統は上洛して秀吉に謁見し、羽柴氏と豊臣姓を賜り吉統と改名、同18年、小田原征伐にも参陣する。同20年に家督を嫡子義乗に譲り、文禄の役で朝鮮に出兵した。

 しかし、翌文禄2年(1593)明の大軍に包囲された小西行長から救援要請を受けたものの行長討死との誤報を信じて撤退し、鳳山城を放棄したことが秀吉の逆鱗に触れ改易された。

 秀吉の死後の慶長4年(1599)罪を赦されて秀頼に仕える。翌年の関ヶ原合戦では毛利輝元の支援を受けて旧領の豊後へ侵攻、旧臣の田原氏・吉弘氏・宗像氏などが合流して木付城(杵築城)に攻め込んだが、黒田如水(官兵衛孝高)と木付城の細川軍の連合軍に敗れて降伏し、常陸宍戸に流罪となった。

 吉統は慶長15年(1610)53歳で没、嫡男義乗は旗本として徳川家に召抱えられ高家として存続した。
 

以下、現地案内板より

大分県指定史跡 臼杵城跡(うすきじょうあと)

 臼杵城は弘治2年(1556年)、大友義鎮(宗麟)によって建てられた城です。臼杵城が築かれた丹生島は、文字通り元々は臼杵湾に浮かぶ島でした。守りの固いその地の利を生かして、この地を城郭にしたと考えられます。
 大友氏改易後は、福原直高、太田一吉と城主が替わり、慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦後、稲葉氏が臼杵藩5万石余の主として、臼杵城に入ります。以後、明治維新まで臼杵藩は稲葉氏によって支配されました。
 その後、明治新政府の廃城決定により卯寅口門脇櫓、畳櫓以外の建物はすべて破壊され、公園化されました。現在は臼杵の歴史のシンボルとして、皆さんに親しまれています。

臼杵市教育委員会


稲葉氏の城郭改修

帯曲輪(おびぐるわ)

 大友氏時代から太田時代(1556-1600)にかけて、臼杵城二之丸、本丸に入るには、城下町に面した入口から鐙坂を通り現在の弓道場の横を抜けて城の東部にある空堀にたどりつき、そこから上がるという大変遠回りをするコースをたどっていました。
 稲葉氏の入城直後、町場に近い位置に登城口があるのは防衛上不安があったためか、新たに三之丸のやや奥まった部分に登城口を設け、二之丸へと上がる間に中之門、上之門と呼ばれる門と枡形を造るという守りの堅い城内通路が整備されました。これによって旧来の道は上之門を境に2つに分断され、畳櫓から上之門に至る空間は帯のように細長いものであることから帯曲輪と呼ばれるようになりました。
 また、この新しい登城口を今橋口、それ以前の鐙坂の登城口は古橋口と呼ぶようになったのもこの頃からです。


二之丸(にのまる)

 江戸時代、空堀から西側一帯を「二之丸」あるいは西の丸と呼んでいました。
 臼杵城は、大友宗麟によって建設されましたが、その当時の「二之丸」の姿は明らかではありません。しかし、近年の発掘調査では、弘治3年(1557年)、天正16年(1588年)の火災で焼けた土層が確認されましたが、天正の火災層からは瓦が一点も出土していないことから、瓦葺きではなかったこと、壁土に漆喰を用いていたこと等が判明しました。また、その層からは景徳鎮(中国)製の青花磁器や赤絵金襴手椀など、多くの高級陶磁器出土していることから、大友時代の城主居館が存在していたことが伺えます。
 大友氏改易後、豊後国は豊臣政権恩顧の大名である福原直高、太田一吉が相次いで入城します。これ以降臼杵城は「織豊系城郭」と呼ばれる、石垣や天守櫓等の豪壮な造りを重んじるスタイルへと変化していったと考えられます。
 その後、慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦直後、美濃国郡上八幡(現在の岐阜県)から転封してきた稲葉氏によって、さらなる改修が実施されます。大門櫓(復元)、帯曲輪や今橋口などもこの時に整備されました。
 その後、延宝4年(1676年)、当時の藩主・稲葉景道(5代目)が本丸から二之丸に御殿を移してからは、こちらが城の中心的機能を担い、明治維新まで使用されました。


二之丸御殿(にのまるごてん)

 二之丸御殿は、「書院造」を基本とした棟をつなげた構造をしていたことが、残されている絵図から分かります。そして、その空間は「表」と「奥」に分けられていました。
 表空間は「大書院」「小書院」「御居間」等の大部屋が見えます。これらは政務遂行や年中行事などの儀礼に使われた空間と考えられます。「御居間」に近づくほど、より限られた身分の者しか出入りできなかったと考えられます。
 奥空間には「御内所」と呼ばれる藩主らの部屋があります。藩主とその家族の日常の場です。「湯殿(風呂)」、「御仏間」等、藩主のプライベートな部屋も見えます。
御殿の奥には、池と築山、石の輪橋などを配した庭がありました。また、北側には「凌雲亭」と呼ばれる茶室が造られた時期もありました。