①紙屋門
②紙屋門内側
③石垣
④篠の丸城を望む
⑤埋御門
⑥陣屋絵図
訪問日:1999年11月
所在地:兵庫県宍粟市(旧宍粟郡山崎町)
天正15年(1587)篠の丸城6万石の黒田官兵衛が豊前に移封された後、城主となった木下勝俊が篠の丸城の麓に山崎城を築いたとされている。
慶長20年(元和元年・1615)池田輝政の次男で備前岡山藩主池田忠継が17歳で亡くなると、3男忠雄が相続するが、4男輝澄に播磨宍粟郡3万8千石が、5男政綱には同赤穂郡3万石が、6男輝興には佐用郡などに2万5千石を分与された。長男で姫路城主の利隆を除き、母はすべて家康の次女督姫なので、家康の外孫である。
督姫は本能寺の変後の北条氏と徳川氏の甲信地方をめぐる天正壬午の乱の和睦条件のひとつとして、天正11年(1583)19歳の時に北条氏直に嫁いだが、天正19年(1591)秀吉に敗れて高野山にあった氏直が亡くなり、家康の下に戻った。
氏直との間には二人の娘がいたが、ひとりは文禄2年(1593)に夭折、もうひとりは義理の息子である利隆に嫁いだが、慶長7年(1602)に早世している。
文禄3年(1594)30歳の時に秀吉の配慮で1歳年上の池田輝政の継室となり、5男2女に恵まれた。輝政死後の慶長20年、次男忠雄と同月に姫路城で亡くなった(51歳)。
山崎城に入った4男輝澄は、寛永8年(1631)に弟の政綱が亡くなると輝興が赤穂郡を相続し、輝興の佐用郡を与えられて、計6万8千石となった。しかし、所領拡大で新たに召し抱えた家臣団と旧来の家臣団との間に対立が生じ、寛永17年(1640)お家騒動に発展した。
林田藩主で、輝政の養女を妻とする建部政長の調停が失敗に終わり、旧来の家臣団の伊木伊織をはじめとした多数の脱藩者を出す。
幕府裁定により、伊木ら20名が切腹、輝澄は家中不取締りで改易され、利隆の子の鳥取藩主池田光仲預かりとなり、藩内の鹿野に堪忍領1万石を与えられた。
山崎には和泉岸和田から松平康映が入るが、慶安2年(1649)に石見浜田に転じ、3か月天領となった後、利隆の次男池田恒元が3万石で入るが、3代目恒行が延宝6年(1678)8歳で夭折し、断絶した。後に、大和郡山から本多忠英が入り、明治維新まで続いた。
以下、現地案内板より
この辺一帯が山崎城であり、別名を宍粟城と言っていました。今から370余年前(元和元年=1615年6月)徳川家康の孫にあたる松平石見守輝澄が宍粟郡3万8千石をもらって山崎の地に城を築きました。
寛永8年(1631)、赤穂城主であった弟の政綱の死去により佐用郡と赤穂郡の内から3万石を加えられて6万8千石となりました。
寛永15年(1638)、御家騒動により、同17年(1640)、領地没収となり、代って、岸和田城より松平周防守康映が城主となり、宍粟郡、佐用郡の内5万石を賜りました。この城は、宍粟、佐用を相和した城であることから、城の名を「宍佐和城」と名づけました。
周防守は城地を整え城下の繁栄をはかりましたが、在城12年余りで慶安2年(1649)、島根県浜田に移りました。
その後には、岡山県から池田光政の弟、松平備後守が城主となり宍粟郡の3万石を賜りました。
寛文11年(1671)、恒元が死去し、その子豊前守政周が後を継ぎましたが、延宝5年政周がなくなり養子の数馬が後を継ぎました。
延宝6年(1678)幼君数馬も江戸で急逝、家を継ぐ子がなく、御家は断絶、領地は一旦幕府の領地となり、延宝7年、本多肥後守忠英が1万石の城主となりました。前藩主、松平数馬の城地に館を造り、それ以来ここを「宍澤城陣屋」と呼びました。
その後、藩主9代が継続し明治維新となり、明治5年、学制頒布により、この地の山崎藩邸がそのまま学校になり、現在の山崎小学校に至りました。
この左の門は、山崎藩陣屋門(紙屋門)で町指定文化財となっています。左右の土塀と石垣も当時のものが遺っております。
山崎城(宍佐和城)略歴
松平石見守輝澄 6万8千石 元和元年(1615)~寛永17年(1640)
松平周防守康映 5万石 寛永17年(1640)~慶安2年(1649)
松平備後守恒元 3万石 慶安2年(1649)~寛文11年(1671)
松平豊前守政周 3万石 寛文11年(1671)~延宝6年(1678)
数馬
本多肥後守忠英 1万石 延宝6年(1678)~明治4年(1871)
以後藩主9代
(歴代城主名と石高、在城期間)
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